証券化のはじまり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 14:24 UTC 版)
建国以来、中国の金融機関は中国人民銀行だけであって、仕事も間接金融が主流であった。その本店が支店に対して強制的な指標を提示して、地方ごとに、また業界ごとに貸出額・貸出先・預金等をコントロールしていた。 1965-1971年に、中国はモーリタニア、イエメン、カナダ、赤道ギニア、イタリア、エチオピア、チリ、ナイジェリア、クウェート、カメルーン、サンマリノ、オーストリアと国交を樹立し、国際連合加盟も果した。翌年には日中共同声明を発した。世界の機関投資家は、当時の中国史に刻まれない高みから外堀をうめていったのである。このようなとき文化大革命が社会保険制度を破壊した。1969年、財政省が「国営企業財務管理制度における改革意見書(草案)」を公表し、国営企業における社会保険給付を一律停止して、企業が保険費用を負担するようになった。企業間で社会保険の支給格差が生じた。 もはや中国人民銀行だけでは資金需給の変化に対応しきれなくなった。そこで1979年に金融制度改革がスタートした。まずは同行に集中されていた各種金融機能が専門銀行に分割された(中国工商銀行・中国農業銀行・中国建設銀行・中国銀行など)。中国人民銀行の支配対象がフローだけとなり、その分行は決められたフローの範囲内で間接金融を担った。1979年は郷鎮企業が社債発行を認められた。民間では闇で株式類似証書による直接金融も行われた。1981年、政府米等の購入が響き48億6600万元の赤字国債を発行した。12月に中国投資銀行が新設された。これを通じて世銀などから借款を受けた。1983年、銀行に利潤留保制度が導入された。1985年、各専門銀行が貸付計画の中に組み込まれ、そこで節約された貸付額の穴埋めとして専門銀行間の銀行間取引市場が整備された。1988年、オーバーローンを廃して、代わりに政策金利設定や公開市場操作といった方法がとられるようになった。貸付をしぶったせいで景気低迷が起こった。それまで中国の証券業は純粋に発行市場だけであったが、不況下で資本調達を可能とするため流通市場が育成されていった。1990年までに発行国債は604億元に達したが、それは半ば強制的に消化されていた。財政部からトップダウンで各自治体の企業に割り当て、各企業が社員の給料から天引きして購入させていたのである。
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