設立時期とは? わかりやすく解説

設立時期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 00:50 UTC 版)

振武寮」の記事における「設立時期」の解説

1945年3月天号作戦備えて第6航空軍司令部東京から福岡前進させ、3月4日福岡高等女学校隣接する福岡女学校司令部施設として接収した福岡女学校授業使用する3つの教室除き接収されたが、その中の女学生用の寄宿舎が後に振武寮呼ばれることとなった。なお、福岡女学校寄宿舎にいた女学生近く民家移っている。 振武寮開設され時期は、菅原の「徒歩にて高女方に初登庁特攻隊員帰還者集合しあり、室広く従来比して各段の差ありて可」という日記記述元にして5月6日とする説があるが、単純に福岡女学校寄宿舎部屋広さ従来兵舎より広いとの比較記述しているだけであり、詳細不明である。 特攻機損傷故障により帰還不時着した特攻隊員や、出撃前に特攻機故障などして出撃できなかった特攻隊員が、代替機福岡平尾福岡高等女学校にあった第6航空軍司令部受け取りに行くと、待ち受けていた倉澤より「貴様らなんで帰ってきた卑怯者お前たち与え飛行機なんてない」「博多駅前大誠館で待機しておれ」と罵倒され何日陸軍軍用旅館足止めさせられていたが、1945年5月12日その内の1名となる第65振武隊山下尚武少尉妻女が、山下特攻出撃止めよう大盛館に押し掛け押し問答の末に山下拳銃奪い自殺試みたのに対し山下軍刀でそれを制止しようとし、拳銃暴発妻女負傷するなど、後に『ピストル事件』と呼ばれる大騒動となった倉澤はこの事件激怒し山下特攻隊員民間旅館から軍の施設となっている福岡女学校寄宿舎に移すようにしている。 この時に山下一緒に寄宿舎行きとなった同じ第65振武隊片山啓少尉は、寄宿舎には特攻出撃して戦死した思っていた顔が何人もあり、ここが不時着などで生き残った特攻隊員閉じ込めておく施設であると認識したとのことで、この証言に基づけば振武寮5月12日以前設立されていたことになるが、管理者一人であった倉澤証言によれば、この『ピストル事件』があった時点では、大盛館が満杯になった関係で溢れた搭乗員20数名寄宿舎宿泊させていたに過ぎず、『ピストル事件』を見て精神不安定な特攻隊員野放しにすると危険と考え倉澤の目の届きやすい寄宿舎移したとしており、振武寮帰還特攻隊員専用宿泊所として使用開始されたのは『ピストル事件』の後という認識で、倉澤収容隊員の間で認識相違がある。 しかし、沖縄戦初期1945年4月6日出撃した第29振武隊山田忠男伍長回想によると、4月3日福岡の第6航空軍司令部出頭した際に5日まで福岡滞在しているが、宿舎は「福岡県立高等女学校寄宿舎の仮兵舎」(寄宿舎福岡女学校施設であるが、隣接していた福岡高女施設混同していた可能性が高い)と回想しており、振武寮開設されとされる5月中より1か月前に特攻隊員兵舎として利用されていたとする証言もある。

※この「設立時期」の解説は、「振武寮」の解説の一部です。
「設立時期」を含む「振武寮」の記事については、「振武寮」の概要を参照ください。

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