設立時期
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1945年3月に天号作戦に備えて第6航空軍は司令部を東京から福岡に前進させ、3月4日に福岡高等女学校と隣接する福岡女学校を司令部施設として接収した。福岡女学校は授業に使用する3つの教室を除き接収されたが、その中の女学生用の寄宿舎が後に振武寮と呼ばれることとなった。なお、福岡女学校の寄宿舎にいた女学生は近くの民家に移っている。 振武寮が開設された時期は、菅原の「徒歩にて高女の方に初登庁。特攻隊員の帰還者の集合しあり、室広く従来に比して各段の差ありて可」という日記の記述を元にして5月6日とする説があるが、単純に、福岡女学校寄宿舎の部屋の広さが従来の兵舎より広いとの比較を記述しているだけであり、詳細は不明である。 特攻機の損傷や故障により帰還や不時着した特攻隊員や、出撃前に特攻機が故障などして出撃できなかった特攻隊員が、代替機を福岡平尾の福岡高等女学校にあった第6航空軍司令部に受け取りに行くと、待ち受けていた倉澤より「貴様らなんで帰ってきた!卑怯者のお前たちに与える飛行機なんてない」「博多駅前の大誠館で待機しておれ」と罵倒され、何日も陸軍の軍用旅館に足止めさせられていたが、1945年5月12日、その内の1名となる第65振武隊の山下尚武少尉の妻女が、山下の特攻出撃を止めようと大盛館に押し掛け、押し問答の末に山下の拳銃を奪い自殺を試みたのに対し、山下が軍刀でそれを制止しようとし、拳銃の暴発で妻女が負傷するなど、後に『ピストル事件』と呼ばれる大騒動となった。倉澤はこの事件に激怒し、山下ら特攻隊員を民間の旅館から軍の施設となっている福岡女学校の寄宿舎に移すようにしている。 この時に山下と一緒に寄宿舎行きとなった同じ第65振武隊の片山啓二少尉は、寄宿舎には特攻出撃して戦死したと思っていた顔が何人もあり、ここが不時着などで生き残った特攻隊員を閉じ込めておく施設であると認識したとのことで、この証言に基づけば振武寮は5月12日以前に設立されていたことになるが、管理者の一人であった倉澤の証言によれば、この『ピストル事件』があった時点では、大盛館が満杯になった関係で溢れた搭乗員20数名を寄宿舎に宿泊させていたに過ぎず、『ピストル事件』を見て、精神が不安定な特攻隊員を野放しにすると危険と考え、倉澤の目の届きやすい寄宿舎に移したとしており、振武寮が帰還特攻隊員の専用宿泊所として使用開始されたのは『ピストル事件』の後という認識で、倉澤と収容隊員の間で認識の相違がある。 しかし、沖縄戦初期の1945年4月6日に出撃した第29振武隊山田忠男伍長の回想によると、4月3日に福岡の第6航空軍司令部に出頭した際に5日まで福岡に滞在しているが、宿舎は「福岡県立高等女学校の寄宿舎の仮兵舎」(寄宿舎は福岡女学校の施設であるが、隣接していた福岡高女の施設と混同していた可能性が高い)と回想しており、振武寮が開設されたとされる5月中より1か月も前に特攻隊員の兵舎として利用されていたとする証言もある。
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