記録が語る王朝交代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 05:52 UTC 版)
九州から王権が移動しヤマト王権が確立したのは7世紀末であるという主張がある。 古代国家成立の要件は、常設の政府(官僚機構)、常設の軍隊、首都(都城)等であることとする。これらが畿内地方で揃うのは持統天皇8年(694年)以降であるが、九州には奴国や太宰府などの都城が古代から存在しこれらが揃っていたと考えられる。 『魏志倭人伝』の邪馬壹國が北部九州に在ったとする説をとると当然ながらその後、九州倭国から畿内日本への権力の移動がなければならないが、漢から唐の歴代の正史では倭についての記述は一貫しており同一の国家についてのことと理解される。唐の正史『旧唐書』、『新唐書』の中で7世紀末に国号が「倭」から「日本」に変わっているので、この時期に王朝が交代したと推定できることとする。『新唐書』の時期に、日本の歴史が改竄・捏造されたと考えられることとする。 万葉集では、8世紀まで大宰府(倭)を日本とは別の国と認識しているという解釈をする。 八隅知之 吾大王乃 御食国者 日本毛此間毛 同登曾念(やすみしし わがおほきみの をすくには にほんもここも おなじとぞおもふ)八方を統べ治めるわが大君のお治めになる国は、日本もここ(大宰府・倭)も同じだと思う(大宰帥 大伴旅人 万6-956) 漢文明圏では新たに成立した王朝は自らの権力の正当性を示すため前王朝の歴史書「正史」を編纂するものであるが、『日本書紀』、『古事記』は8世紀初頭頃に編纂されているので、ヤマト王権が確立したのは7世紀末であると推定される。ただしこれには『天皇記』や『国記』などの6世紀に編纂された書物のことが考慮されていないので成り立たない。 日本各地の寺社の縁起や地方の地誌・歴史書等にヤマト王権以前に九州倭国が定めたということにできる「九州年号」(継体元年(517年)-大長九年(712年)下記参照)が多数散見される。「九州年号」も8世紀初頭で終わっており、この時期に王朝の交代があったと推定されることとする。 日本書紀によると敏達天皇13年(584年)に畿内へ仏教を伝えたのは播磨にいた高句麗の還俗僧の恵便である。584年以前に既に播磨へは仏教が伝来していたということであり、6世紀末播磨は畿内にとって別の文化圏( = 外国)だったということにすることもできる。
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