計画出産の提唱
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1949年8月、馬寅初は浙江大学校長に任命され、9月には中国人民政治協商会議に出席して中央人民政府委員・財政経済委員会副主任・華東軍政委員会副主席を兼任している。1951年5月、北京大学校長に起用された。この後、第1期・第2期の全国人民代表大会常務委員、第1期から第5期の政治協商会議全国委員会委員(2,4,5期は常務委員)などを務めることになる。特に中華人民共和国建国初期には、馬は物価の安定やインフレの防止などで貢献をなした。 1955年、馬寅初は第1期全人代第2回会議において人口統制の必要性を表明した。すでに1920年代の段階でも、馬は各種記事において、中国における人口増加への懸念を示している。そして1954年から55年までの3度の浙江省実地調査を経て、さらに理論的な構築を進めたのである。1957年2月の最高国務会議においても馬は計画出産の政策を提案し、この時は多くの賛成を得ている。そして同年6月の第1期全人代第4回会議において、馬は正式に計画出産の提案を行い、7月5日には『人民日報』において「新人口論」と題する文章を公表した。 ところが、新人口論の公表後になって馬への批判が相次ぐようになり、反右派闘争では馬も標的の1人となる。翌年5月からは陳伯達・康生らから新人口論はマルサス主義の理論であると論難され、1960年1月には北京大学校長から辞任に追い込まれている。馬は文化大革命でも非難を受け、さらに直腸癌などを患い、癌に関しては手術が成功したものの下半身不随になっている。 彼の理論を十分吟味することなく糾弾し、多産を奨励したことは、中国に種々の歪みをもたらした。1979年夏、中共党中央組織部長・中央秘書長だった胡耀邦は「馬先生に対し毛沢東同志は実に黒白転倒、非行乱行を加えた。当時新人口論を批判することなく受け入れていれば、今日中国の人口は10億の大台を突破することはなかった。一人を誤って批判したために5億もの人口を増やしてしまった。もうこんな愚劣な過ちは犯してはならない」と涙ながらに語ったという(北海閑人著、廖建龍訳「中国がひた隠す毛沢東の真実」)
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