解明への端緒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 05:54 UTC 版)
「地方病 (日本住血吸虫症)」の記事における「解明への端緒」の解説
1881年(明治14年)8月27日、この奇病の原因解明への端緒となる嘆願書が提出された。東山梨郡春日居村(現:笛吹市)の戸長である田中武平太により、当時の山梨県令藤村紫朗宛に提出された嘆願書の『水腫脹満に関する御指揮願い』であった。同村では古くから地方病が流行していたが、戸数約60戸ある村の東西(両端)に病気はなく、中央部に当たる小松地区(北緯35度39分50.3秒 東経138度39分41.3秒 / 北緯35.663972度 東経138.661472度 / 35.663972; 138.661472 (春日居小松地区))だけに病気があることから、発生地域を示した村の略図を添えて病気の原因調査を依頼する請願を提出した。「原因は皆目判らず。水だろうか、土だろうか、それとも身体に原因があるのだろうか。嗚呼悲しきかな、困苦見るを忍びず。」と書かれたこの嘆願書は、村人の悲痛な叫びであった。 1884年(明治17年)、県の派遣した医師により小松地区の患者の診察、および飲料水(井戸水)などの住環境を含む調査が行われたが、病気の原因は不明であった。1887年(明治20年)になり、長町耕平県病院長と医員が当時一般化したばかりの糞便検査を行い、その結果ある虫卵を発見、一種の鉤虫であろうと推察した。しかし、これが何の卵なのかはもちろん、当疾患との関連性もこの段階では分からなかった。 また同時期の1886年(明治19年)、同地の徴兵検査を担当した軍医石井良斉は、中巨摩郡および北巨摩郡の特定の有病地の村から来た20歳前後の徴兵年齢の青年の大半が、身長が140センチ強ほどの子供程度しかなく、腹部は腹水により膨れあがり手足は痩せ細り、顔面は蒼白であることを知った。明らかにこの地特有の栄養障害があるものと思われ、これほど深刻な発育不良が特定の地区に集団発生していることは、日本各地を調査してきた石井軍医にとっても驚くべきことであった。時代は日清戦争直前で富国強兵は国策であり、兵役に適さない健康不良者の多発はきわめて重大な問題とみなされた。石井の報告を受けた軍部は事態を重く見て、藤村紫朗山梨県知事に対し、原因解明を行うよう強く要求した。知事も軍の意向は深刻に受け止めざるを得ず、以後行政は地方病対策に本腰を入れることになる。
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