西園寺公望との関係
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私塾立命館の閉鎖をたいそう残念に思っていた西園寺公望は、同私塾の復興を誓う。その意志を継いだのが西園寺の秘書官、中川小十郎だった。自分の意志を継いだ中川に西園寺は協力を惜しまず、自らの政治的人脈を生かし、様々な形での支援を行った。西園寺の庶弟末弘威麿が学園幹事に就任、同じく実弟の住友財閥当主徳大寺隆麿(住友友純)は大口の寄付を行った。また西園寺家家紋である「左三つ巴」の旗を立命館学園が使用することを許可しており実際に使用されていた。また大学昇格に必要な書籍を寄付するなど、物理的な面でも支援も行っている。また、愛新覚羅溥儀は立命館に巨額の寄付を行っており(衣笠キャンパスは溥儀の寄付により作られた)、これも西園寺の人脈によるものである。 中川が「立命館」の名称を用いることを西園寺に申し出た際には『立命館』の名称と精神の継承(立命館の再興)を大層喜び、『立命館と由緒』の大扁額を与えた。後に西園寺は「余が建設せる立命館の名称と精神を継承せる貴学」と現在の立命館大学のことを述べており、彼の作った立命館が再興し、受け継がれている事を喜んだ(原文:「明治ノ初メニ於イテ余ガ建設セル立命館ノ名称ト精神ヲ継承セル貴学ガ益々発展シテ国家ノ進運ニ貢献スルコト大ナルベキヲ祈ル」(1935年(昭和10年))。 西園寺は専門学校令によって創立した京都法政大学が、大学令による大学への昇格条件を満たすために多数の書籍を寄付している。これらの書籍は、現在も「西園寺文庫」として保存されている。なお、1回目の寄贈は1925年5月に行われ、英仏書187冊であった。その後、1930年10月16日に和漢書約300冊、1938年6月には西園寺家伝来の和綴本739部881冊の寄贈が為された。この和綴書には、宮中儀式、有職故実関係、改元記録、和歌関係などの貴重文書が含まれている。そして1940年5月に行われた最後の寄贈は和漢書6,671冊にもおよび、西園寺が特に愛読していたと思われるものが大量に含まれているのが特徴である。 1932年、83歳になった西園寺は人生最後の京都訪問を行う。その際、京都市上京区にある立命館大学広小路学舎を訪問先に選んだ。9月22日の朝、広小路学舎を訪れた西園寺は、校舎ホールに飾ってある自筆の『立命館』の扁額に気が付くとしばらく目を留めたといわれている。 西園寺の私塾との間に学校組織としての連続性はないものの、こうした状況から西園寺が没した1940年に財団法人立命館は、西園寺を「学祖」と取り決めた。そのため、西園寺家との関係は、学校法人立命館のみならず、立命館大学とも続いており、大学の行事に西園寺家の人々が出席している。
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