衰退続く政党と胎中楠右衛門
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「憲政碑」の記事における「衰退続く政党と胎中楠右衛門」の解説
1934年(昭和9年)1月18日、木暮武太夫、木村正義、船田中を発起人として、政友会所属の有志議員30名あまりによって国政一新会が結成され、胎中楠右衛門は座長兼世話人となった。国政一新会は国政革新を標榜して政治、経済、日本精神宣揚の三大綱領を決議したが、中でも政治革新に関する綱領では「立憲政治の確立、我が立憲政治の紛淆または変革せんとする一切の行為を排撃す」「政党の機構および活動の是正、政党は自然的必然的社会現象にして、立憲政治の寛政は政党の革正にあることを認識し、その機構および活動を是正す」としていた。胎中ら国政一新会のメンバーは決議を政友会幹部に進言し、その逐次実行を働きかけた。その後も国政一新会はその活動を継続していくものの、立憲政治、政党政治の擁護と改革を目指す胎中らの思いとはうらはらに、政党の混乱はなおも続いていく。例えば海老名の憲政碑の題字を揮毫した秋田清は、松岡洋右らが提唱する既成政党解消運動に賛同し、1934年(昭和9年)12月12日、これまでの政治上における一切の経歴の清算と出直しを表明し、政友会を脱党するとともに衆議院議長を辞職した。 このような情勢下、胎中楠右衛門は1934年(昭和9年)12月9日、突如衆議院議員を辞職する。これは政友会が当時の岡田内閣への対決姿勢を和らげ、妥協に走ったことに対する強い不満によるものと推測されている。衆議院議員辞職後、胎中は談話を発表した。談話ではかつての政治家は国家のために文字通り身命を投げ打っており、結果として板垣退助、伊藤博文、西園寺公望、原敬らは軍部と対等に渡り合うことが出来たものであるが、今や政党、そして政治家は政府の顔色を伺ってばかりいて、腰砕けになってしまっていると批判した。そしてこのような状態では政治家、代議士たる資格はないと断じ、政党政治家は今こそ猛省して決起すべしと主張した。 しかし胎中は衆議院議員は辞職したものの政友会からは脱党しようとはしなかった。板垣退助らが結成した自由党以来の伝統があり、憲政に貢献した多くの先輩政治家らによって培われてきた政友会を見捨てることは胎中には出来なかった。彼は既成政党解消運動を批判し、国政一新会の座長としてあくまで政友会、そして政党の更生に尽力し続けた。 胎中は1936年(昭和11年)2月20日投票の第19回衆議院議員総選挙に当選し、再び衆議院議員となった。そして同年11月には「政党の更正を説いて時務に及ぶ」と題したパンフレットを作成し、各方面に配布した。その中で胎中は「政党政治の存亡、議会政治の危機がいよいよ眼前に、脚下に迫ってきたことを痛感する」との現状認識を述べ、まだ十代半ばの頃から四十年余りの間、政党運動に身を投じてきた自らの経験を引きながら、政友会、民政党を問わず、政党人の自覚、そして決起努力を求めた。そして憲政の円満な運用には政党が不可欠であると主張し、非常時であるからといって政党勢力を抑圧していくことは実に危険なことであるとした。その上更に 政党を抑圧し、国民大衆の思想感情を圧迫しておいて、ある種の勢力のもとで無理に国論を統一しようとしても、それは出来るものではない。却って国民をして政治から遊離させることになる……日本において欽定憲法の有り難さを知らず、議会政治否認とかファッショを憧憬するがごときの思想を有するものありとすれば、言語道断沙汰の限りである。 と断じた。 その上で胎中は政党と政党政治家に一層の奮起を求め、国民に対しては政党政治への理解と協力を求めた。そして議会政治の高揚と国民の意思を代表代弁する政党の尊重によって、真の挙国一致、全国民の総意を成し遂げて難局を克服していくことを主張し、そのために自らは尽力していく覚悟を表明した。
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