衆議院との関係が緊迫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 09:30 UTC 版)
「アルブレヒト・フォン・ローン」の記事における「衆議院との関係が緊迫」の解説
1861年11月と12月に行われた衆議院総選挙で、自由主義左派政党ドイツ進歩党が352議席中109議席を獲得した。他に自由主義右派が95議席、自由主義左翼中央派が52議席、カトリック派が54議席、ポーランド人派が23議席を獲得した。一方保守派はわずか15議席だった。一気に自由主義的になった衆議院は、国王ではなく議会に責任を負う内閣の誕生を要求するようになり、また政府の軍事法案の阻止を図るようになった。 ローンは、この選挙結果に動揺するヴィルヘルム1世や内閣に対して「もし国王が衆議院に譲歩するなら軍は国王に不信を抱かざるを得ない」と脅迫し、衆議院に対して断固たる姿勢をとることを求めた。これは軍事内局局長マントイフェルと同じ立場であるが、マントイフェルは衆議院に対してクーデタを起こそうとしていたのに対して、ローンはクーデタには反対していた。ローンは現行憲法の体制を破壊せず、小ドイツ主義統一を推し進め、自由主義者のナショナリズムの矜持を満足させることによって、自由主義者の革命を抑え込み、権威主義体制を守ることを考えていた。これと同じ考えの同志がオットー・フォン・ビスマルク(当時駐ロシア大使)であった。 自由主義者の増長を恐れたヴィルヘルム1世とローンは、1862年3月に衆議院を解散し、さらに「新時代」内閣の自由主義大臣たちを罷免した。その後ローンと蔵相アウグスト・フォン・デア・ハイト(ドイツ語版)男爵を中心とするアドルフ・ツー・ホーエンローエ=インゲルフィンゲン内閣を誕生させた。 しかし1862年4月と5月の解散総選挙の結果は政府にとってさらに壊滅的だった。保守派の議席は更に減って11議席になり、政府に協力的な態度をとった自由主義右派とカトリック派も大きく議席を落とした。一方で進歩党が135議席、中央左派が96議席を獲得して躍進した。政府と議会の協調は一層難しくなった。プロイセン王権の支柱は陸軍のみとなり、ローンが政府の中心となった。 1862年8月4日の衆議院予算委員会において委員である進歩党のカール・トヴェステン(ドイツ語版)、中央左派のフリードリヒ・シュターヴェンハーゲン(ドイツ語版)、ハインリヒ・フォン・ジイベル(ドイツ語版)の三者は軍制改革の妥協案(現役兵役2年、軍事予算の一定の削減のみを条件として軍制改革予算案に賛成する)を提出した。 ここ至ってローンもこの妥協案で手を打つ決意をし、9月17日に衆議院本会議でその旨を発表した。その日の夜に行われた国王臨席の閣議で他の閣僚たちもローンの方針の支持を表明したが、最後に口を開いたヴィルヘルム1世は兵役3年を譲歩することは許さないとして無予算統治で軍制改革を断行するか、さもなければ自分は退位すると語った。この脅迫で閣議の流れはすっかり変わり、フォン・デア・ハイト蔵相らをのぞく、ほぼ全閣僚(ローンも含めて)がヴィルヘルム1世の無予算統治路線に賛同した。これを受けてローンは、9月18日の衆議院予算委員会で前日の妥協案の受け入れの意思表示を撤回すると宣言した。怒り狂った衆議院は、9月19日の本会議で妥協案を否決し、政府への徹底抗戦の構えを見せた。
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