衆議院との対立激化
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「ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)」の記事における「衆議院との対立激化」の解説
1861年11月19日と12月6日に衆議院選挙が行われたが、自由主義左派のドイツ進歩党が109議席、自由主義右派が95議席、カトリック派が54議席、自由主義中央左派が52議席、ポーランド人派が23議席を獲得した。一方保守派はわずか15議席だった。この衆議院の勢力図では政府の軍事法案が可決される見通しは皆無だった。 1862年1月14日に召集した衆議院は予想通り進歩党の主導で3年兵役制を拒否した。また進歩党・中央左派・ポーランド人派の賛成により予算の細目化を求める採択がなされた。この情勢から軍制改革続行不可能と判断した「新時代」内閣は3月8日にヴィルヘルムに辞表を提出した。これに対してヴィルヘルムは大臣任免権はあくまで自分にあり、衆議院にあるのではないと考えていたため総辞職を拒否し、3月11日に衆議院を解散した。しかし自由主義右派系の閣僚たちは議会内の自由主義右派勢力と強調して進歩党に対抗する必要があると主張し、郡(クライス)制度と大臣責任法の改正、62年度予算案細目化、軍制改革費用削減を要求し、保守派閣僚と内部抗争を起こした。ヴィルヘルムが保守派を支持した結果、自由主義右派閣僚たちは辞職し、「新時代」内閣は崩壊した。 ヴィルヘルムは新内閣のトップを高貴な者で飾りたいと願い、政治から離れていたアドルフ・ツー・ホーエンローエ=インゲルフィンゲン公爵を首相とした。「新時代」内閣からの残留である陸相ローン、外相アルブレヒト・フォン・ベルンストルフ伯爵(ドイツ語版)、蔵相アウグスト・フォン・デア・ハイト男爵(ドイツ語版、英語版)が内閣の中心であった。特にハイトが事実上の内閣の指導者であった。 しかし4月28日と5月6日に行われた解散総選挙の結果は一層壊滅的であった。保守派の議席は11議席にまで落ち込み、軍制改革に賛成したカトリック派や自由主義右派もそれぞれ28議席、65議席と議席を大きく落とした。反政府派の急進的自由主義者である進歩党と中央左派は躍進し、それぞれ135議席、96議席を獲得した。政府と衆議院の協調の可能性は一層なくなった。
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