衆議院と貴族院への改組
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 14:46 UTC 版)
「プロイセン議会」の記事における「衆議院と貴族院への改組」の解説
1849年5月の緊急勅令と8月の議会における承認により、第二院の選挙制度は、普通選挙に代わって納税額に基づいて選挙権を三段階に分ける三級選挙権制度(ドイツ語版)に変更された。またこの際に秘密選挙も廃されて公開選挙になったので政府や支配層が選挙民の投票を監視することが可能となった。男子三級選挙権制度と公開選挙制度は1918年に共和政になるまで約70年にわたって維持されることになった。 また高額納税者の互選で選出すると定められていた第一院についても1850年1月31日の議会で制定された欽定憲法修正憲法で変更が加えられ、世襲(旧ライヒ直属諸侯の家長、勅令により上院所属権を付与された家系の家長)、任命(終身勅任議員)、選挙(高額納税者の互選で選出された者、大都市自治機関によって選出された者)という三重構造に変更された。さらに1853年の憲法改正法で第一院の選挙制度は廃止されて、原則として世襲議員と終身勅任議員のみで構成される院となった。 1855年の法律により第一院は貴族院、第二院は衆議院に改名された。 貴族院は皇族、大貴族、小土地貴族、高級官僚、高級将校、聖職者により構成される極めて封建的な院となり、プロイセン立憲化推進の最大の障害物であり続けた。庶民院も当初は三級選挙法の下に保守派が優勢であったが、プロイセンの資本主義化による産業構造の変化で産業資本家と金融資本家の租税負担が増大した結果、1850年代末から1860年代半ばにかけてはブルジョワ自由主義者が台頭する院となった。そのためブルジョワ自由主義政党ドイツ進歩党と対立するプロイセン首相オットー・フォン・ビスマルクは、普通選挙論者だった社会主義者フェルディナント・ラッサールに接近を図って男子普通選挙法の欽定を匂わせ、進歩党を牽制した時期もあった。
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