茂菅発電所建設と開業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 18:32 UTC 版)
1897年7月31日、会社設立前に出願していた長野市大字茂菅における裾花川の水利権が長野県より許可された。発電所建設地は市街地から4キロメートルほど離れた山間部にあたる。発電所工事は東京の品川電灯が請け負い、1898年(明治31年)3月30日に完成。4月18日には検査も完了した。この茂菅発電所の当初設備は米国モルガン・スミス製水車1台と芝浦製作所製の60キロワット (kW) 単相交流発電機1台からなる。 茂菅発電所の完成後、1898年5月9日に電灯使用の認可が下り、10日夜に試験点灯を実施したのち11日夕より電灯供給を開業した。先に事業許可を得ていた松本電灯が翌1899年(明治32年)12月の開業となったことから、長野電灯が長野県第一号の電気事業者にあたる。開業当時の供給区域は長野市内の38町。電灯数は定額灯1071灯・従量灯1灯で、電灯には終夜点灯する「終夜灯」と0時以降は消灯する必要がある「半夜灯」という2種の区分が存在した。開業後、電灯は善光寺・長野駅周辺の旅館・商店から一般家庭に至るまで、徐々に普及していった。 十分な需要の確保に成功した長野電灯の経営は当初から順調で、1年目から年率8パーセントの配当が可能であった。需要増加により開業1年未満で早くも発電力が限界に達し新規の申し込みを謝絶せざるを得ない状況に追い込まれたため、1899年3月10日に臨時株主総会を開いて増資を決議(資本金は3万5000円増の8万円に)した上で、4月に茂菅発電所発電機の増設を出願した。増設設備は米国モルガン・スミス製水車1台と芝浦製60 kW三相交流発電機(周波数60ヘルツ)からなり、翌1900年(明治33年)3月20日に使用認可が下りた。 増設後、1900年内に電灯数は2000灯を超えた。同時期の「電灯点火規則」によると、電灯料金は電球の燭光(明るさ)別に月額料金が規定されており、10燭灯の場合は半夜灯60銭・終夜灯70銭、16燭灯の場合は半夜灯80銭・終夜灯1円という料金であった。6灯以上取り付ける場合には割引があり、また室内電線器具損料として1灯につき月15銭も別途徴収された。
※この「茂菅発電所建設と開業」の解説は、「長野電灯」の解説の一部です。
「茂菅発電所建設と開業」を含む「長野電灯」の記事については、「長野電灯」の概要を参照ください。
- 茂菅発電所建設と開業のページへのリンク