茂義の軍事研究
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請役を罷免される前の天保2年(1831年)、茂義は雨天でも使用できる火打石銃をオランダから輸入している。さらに、オランダ人を招いて軍事教練を実施したと伝えられており、武雄領内の軍制をオランダ式に改めている。そして、天保3年(1832年)、家臣の平山醇左衛門を長崎町年寄の高島秋帆に入門させて、西洋式砲術を学ばせ、天保5年(1834年)茂義自身も秋帆に入門し、翌年免許皆伝を受けている。 このように、茂義は幕府韮山代官江川英龍などが着目する前から、高島秋帆と深い交流を持っており、天保6年(1835年)には秋帆が日本で初めて鋳造した西洋式大砲(青銅製モルチール砲)が茂義に献上されている。この青銅製モルチール砲は、秋帆の名やオランダ暦(西暦)の1835年に初めて日本で鋳造された旨のオランダ語が刻まれた貴重なものであり、かつては武雄市図書館・歴史資料館に展示されていた。 そして、この頃には、武雄領でも西洋式大砲の鋳造や試射が行われており、茂義は我が国の封建領主の中で最も早く西洋の軍事技術の導入に成功した人物と位置付けられる。 この武雄領の軍事技術に、佐賀藩が注目したのは、それから5年後の天保11年(1840年)に斉正が武雄兵の軍事演習を視閲したときであり、佐賀藩は老中水野忠邦が西洋式砲術に興味を示しているのを敏感に察知して、天保13年(1842年)、武雄領の平山醇左衛門を砲術稽古及び大砲鋳造のために取り立てている。なお天保12年(1841年)には、江川英龍が武雄を訪れ、軍事教練及び大砲鋳造を見学したと伝わっている。 しかし江戸町奉行鳥居耀蔵の讒言により、同年末に高島秋帆が捕縛されると、翌年に平山醇左衛門が武雄領内で処刑されるなど、一時佐賀藩内や武雄領内で高島色が払拭される動きが現れる。 そうした中でも、茂義は、佐賀藩の火術方(砲術研究所)でたびたび相談ごとを受け、諸藩に先駆けて新型砲(ペキサンス砲)の研究も行っており、オランダ通詞と独自のパイプを持っていた茂義が、日本周辺への列強の出没に危機感を覚え、さらに軍事研究を続けていたことが伺える。
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