茂義の軍事研究とは? わかりやすく解説

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茂義の軍事研究

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/23 20:22 UTC 版)

鍋島茂義」の記事における「茂義の軍事研究」の解説

請役を罷免される前の天保2年1831年)、茂義は雨天でも使用できる火打石銃をオランダから輸入している。さらに、オランダ人招いて軍事教練実施した伝えられており、武雄領内の軍制オランダ式改めている。そして、天保3年1832年)、家臣平山左衛門長崎町年寄高島秋帆入門させて、西洋式砲術を学ばせ、天保5年1834年)茂義自身も秋帆に入門し翌年免許皆伝受けている。 このように、茂義は幕府韮山代官江川英龍などが着目する前から、高島秋帆と深い交流持っており、天保6年1835年)には秋帆が日本初め鋳造した西洋式大砲青銅製モルチール砲)が茂義に献上されている。この青銅製モルチール砲は、秋帆の名やオランダ暦(西暦)の1835年初め日本鋳造された旨のオランダ語刻まれ貴重なものであり、かつては武雄市図書館・歴史資料館展示されていた。 そして、この頃には、武雄領でも西洋式大砲の鋳造試射が行われており、茂義は我が国封建領主の中で最も早く西洋軍事技術導入成功した人物位置付けられる。 この武雄領軍事技術に、佐賀藩注目したのは、それから5年後天保11年1840年)に斉正が武雄兵の軍事演習視閲したときであり、佐賀藩老中水野忠邦西洋式砲術興味示しているのを敏感に察知して天保13年1842年)、武雄領平山左衛門砲術稽古及び大砲鋳造のために取り立てている。なお天保12年1841年)には、江川英龍武雄訪れ軍事教練及び大砲鋳造見学した伝わっている。 しかし江戸町奉行鳥居耀蔵讒言により、同年末に高島秋帆捕縛されると、翌年平山左衛門武雄領内で処刑されるなど、一時佐賀藩内や武雄領内で高島色が払拭される動き現れるそうした中でも、茂義は、佐賀藩火術方(砲術研究所)でたびたび相談ごとを受け、諸藩先駆けて新型砲(ペキサンス砲)の研究行っており、オランダ通詞と独自のパイプ持っていた茂義が、日本周辺への列強出没危機感覚え、さらに軍事研究続けていたことが伺える。

※この「茂義の軍事研究」の解説は、「鍋島茂義」の解説の一部です。
「茂義の軍事研究」を含む「鍋島茂義」の記事については、「鍋島茂義」の概要を参照ください。

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