苦境とそこからの脱却
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 15:47 UTC 版)
「エリオット・スミス」の記事における「苦境とそこからの脱却」の解説
「Figure 8」に続くアルバムは当初、ロブ・シュナフとの間で計画されていたが、このセッションは完成を迎えずに中断されてしまう。また、スミスは「Roman Candle」の頃からマネージャーを務めてきたマーガレット・ミトルマンとしだいに距離を置くようになっていた。結局、スミスは友人のジョン・ブライオンと二人きりでレコーディングを開始。二人はアルバムのためのかなりの量の曲をレコーディングしたが、スミスのドラッグ、アルコール問題が衝突を引き起こし、二人の友情は終わりを告げる。ショックを受けたスミスはレコーディングの成果物を全て破棄してしまう。 2001年5月、今度はほぼ一人で6作目となるアルバムのレコーディングを再開。レコーディングを手伝ったゴールデンボーイのディヴィッド・マコーネルによれば、この時期のスミスは1500ドル相当のヘロインとクラックを一日で消費し、しばしば自殺願望を口にし、何度もオーバードースを起こしそうになっていたという。このセッションには、スティーブン・ドローズ(フレーミング・リップス)とスコット・マクファーソンがドラムで、サム・クームズがベースとバッキングボーカルで参加した。 2001年、ウェス・アンダーソン監督の映画「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」において「Needle In The Hay」 が劇中歌として使われる。もともとスミスはビートルズの「Hey Jude」のカバーを提供する予定だったが、期限に間に合わせることができなかったため、アンダーソンは代わりにオーケストラに演奏させた。アンダーソンは後に、「彼は悪い状態だったから、とても無理だった」と語っている。 2001年から2002年にかけてスミスはほとんどライヴ活動を行っていない が、2001年12月20日ポートランドのCrystal Ballroomで行われたショウのレポートは、彼の外見と行動に対する懸念を示していた。髪は伸び放題で脂ぎっており、顔は無精ひげにおおわれ、やつれていた。薬物あるいはアルコールの影響からか、彼は演奏中にしばしば記憶障害に陥り、指の動きもおぼつかなかった。スミスが歌詞(時折ギターのコードも)を思い出せないとき、観客はしばしばそれを叫んで教えなければならなかった。2002年に行われた3つのライブのうちの1つは、5月2日にウィルコとのダブルヘッドライナーとして行われたが、スミスのパフォーマンスは「疑う余地無くこれまでのミュージシャンにおける最悪のショウの一つ」、「耐え難い。。。悪夢」と評された。オンラインマガジンのGlorious Noiseのリポーターは「エリオット・スミスがこの1年以内に死んでも驚かないだろう」と述べている。 2002年の11月25日には、ベックとフレーミング・リップスのライヴ会場にて、ロサンゼルス市警の警官と乱闘騒ぎを起こしている。スミスは一緒にいた彼女と共に身柄を拘束され、留置場で一晩過ごした。 このような苦境の中、2002年末からスミスは神経伝達物質修復センターに通い、点滴治療によってドラッグ中毒を克服した。さらには長年に渡って依存していたアルコールや抗うつ薬を断つことにも成功。ちょうど34歳の誕生日を迎えた頃にはクリーンな体に戻っていた。この時期にはノイズミュージックに入れ込み、iMacを使ったレコーディングにも取り組んでいる。また、映画サムサッカーのサウンドトラックのためにビッグ・スターの「Thirteen」とキャット・スティーヴンスの「Trouble」のカヴァーなどを録音している。映画監督のスティーブ・ハンフトはスミスの生前最後の6ヶ月を「トンネルを抜けた先にある光」のようだったと表現している。また、スミス自身もアルバム完成を目前に控えたインタビューでこう語っている「ここ数年、本当に自暴自棄になっていた。でも今日は気分がいい。これはいいアルバムになると思うよ。」 。
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