苦境と衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 06:21 UTC 版)
「フランス・スポーツ競技社団連合」の記事における「苦境と衰退」の解説
1906年、教皇ピウス10世の呼びかけでローマにおいて大規模スポーツイベントが行われることになったが、新設のフランス体操・スポーツ後援連盟の代表ポール・ミショーの強い後押しにより、移動するプレイヤーとスタッフの数は大規模なものとなり、これに対する処罰でUSFSAは評判を落とす。同団体の理事シャルル・シモンはUSFSAの苦境に付け込んで、1907年に作った新団体「フランス連盟間委員会」にサッカークラブを引き抜いた。会員数増加に功績のあったクーベルタンもまた、1906年に方針の違いからUSFSA役員を退職した。さらに彼の後任フランツ・レイシェルにも混乱を利用するチャンスを与え、レイシェルは「全国スポーツ委員会」を設立して分離独立する。この組織は1908年と1912年の五輪に出場するためのスポーツ界の広い合意形成のために、フランスオリンピック委員会を吸収した。こうして弱体化していったUSFSAだが、1912年ストックホルムオリンピック終了後にワールドアスレティックス創設のオリジナルメンバーとなった。サッカーに関してもUSFSAの管理能力は大きく削減され、第一次世界大戦後は各部門に自治権を与えたが、それが崩壊への序曲だった。最後の会長ガストン・ヴィダルにによって1920年10月9日に開かれた会議で、この組織は「フランス・スポーツ陸上競技連合会 (Union française des fédérations de sports athlétiques (UFFSA)」に改名された。この新名称のもとで各競技部門はそれぞれの種目に特化した広範な自治権を与えられたのだが、それは彼らの独立を促してしまった。その分離独立組織のひとつがまさしく、21世紀現在フランスサッカーの統括組織としてFIFAに加盟しているフランスサッカー連盟 (FFF)である。1919年に生まれたFFFは、母体であるUSFSAから真っ先に分離独立した。フィールドホッケー連盟は1920年11月13日に創設され、そしてフランスラグビー連盟の独立後最初の会長となったのはUSFSAラグビー部局の最高責任者だったオクターヴ・ラリーである。1920年11月20日にはフランス陸上競技連盟が独立、そして1921年にUSFSA内部の「フランス水難救助連盟」がフランス水泳連盟として独立した。1920年内にはもうUSFSAが開催する選手権は何もなくなり、バスケットボールは陸上競技連盟が運営を引き継いだ。
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