苑主・友司没後~開祖死去までとは? わかりやすく解説

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苑主・友司没後~開祖死去まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 06:17 UTC 版)

真如苑」の記事における「苑主・友司没後~開祖死去まで」の解説

1967年8月、苑主友司(摂受心院)大僧正遷化後(没後)の1970年5月、苑主誕生吉辰期し祖山である真言宗総本山醍醐寺より醍醐寺座主 三宝院門跡東行密教守護神、醐山総鎮守である霊神清瀧大権現』が、真如苑真澄寺の地に分霊勧請鎮座された。 【註】「清瀧権現御事: およそこの神は三国(天竺中国・日本)において密教守護する霊神なり。しかれば則ち天竺(インド)において龍猛密教護り、辰旦(中国)においては恵果法流守り玉へり。清瀧名字青龍寺深くこれを思うべし。ここに我が(高祖)大師(空海)、大唐渡って青龍瓶水写したまへり。我が朝にこの法流を守る為に大師帰朝の時、同船したまへり。日域大同元年なり。 しかれば桓武天皇崩御故に鎮西(九州)御逗留あり。御逗留の間は雨師大明神と号す。この神、大同二年に大師入洛の後は《善女龍王》と号し奉るその後聖宝尊師醍醐山建立の時、上醍醐本宮移したまへり。その後堀河天皇御宇寛治四年四月四日勝覚権僧正上の醍醐西谷准胝観音堂傍ら勧請奉るその後僧正の時、下醍醐移し奉る。ときに帝王正一位をくださる。」(註:真福寺大須文庫(北野真福寺宝生院大須観音)https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100193541/viewer) 70年代より急速に教勢伸長し80年代後半には、公称信者数200万人発表したこの頃より信者数200万人という数字メディアから注目され取り上げられることが多くなったため、真如苑は、真乗の死を期に信者数実数合わせ下方修正発表した1973年3月真如苑初の海外支部ハワイアメリカ)に落慶した。1976年5月醍醐寺金堂にて、真乗を導師として、醍醐寺開創一千百年慶讃法要執行された。1978年10月、真乗がタイ国訪問上座部仏教交流深めた1979年3月立川総本部十一面観世音菩薩本尊とする発祥第二精舎落慶した。6月には、真乗が欧州5カ国を巡教1980年5月にはハワイアメリカ本土巡教した。 1983年10月真如法燈継承の儀により、三女伊藤真聰四女真玲が法流相承した。1984年4月醍醐寺金堂にて、真乗を大導師として、真聰、真玲を副導師として、弘法大師入定一千五十御遠忌法要執行された。1989年7月教主真乗死去により、伊藤真聰が苑主・真澄寺首座継承し、継主となった

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