苑主・友司没後~開祖死去まで
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「真如苑」の記事における「苑主・友司没後~開祖死去まで」の解説
1967年8月、苑主友司(摂受心院)大僧正遷化後(没後)の1970年5月、苑主誕生の吉辰を期し、祖山である真言宗総本山醍醐寺より醍醐寺座主 三宝院門跡東行、密教の守護神、醐山総鎮守である霊神『清瀧大権現』が、真如苑真澄寺の地に分霊勧請、鎮座された。 【註】「清瀧権現御事: およそこの神は三国(天竺・中国・日本)において密教を守護する霊神なり。しかれば則ち、天竺(インド)において龍猛の密教を護り、辰旦(中国)においては恵果の法流を守り玉へり。清瀧の名字、青龍寺号深くこれを思うべし。ここに我が(高祖)大師(空海)、大唐に渡って青龍の瓶水写したまへり。我が朝にこの法流を守る為に大師帰朝の時、同船したまへり。日域大同元年なり。 しかれば桓武天皇崩御の故に且鎮西(九州)御逗留あり。御逗留の間は雨師大明神と号す。この神、大同二年に大師入洛の後は《善女龍王》と号し奉る。その後聖宝尊師、醍醐山建立の時、上醍醐本宮へ移したまへり。その後堀河天皇の御宇、寛治四年四月四日、勝覚権僧正、上の醍醐西谷准胝観音堂の傍らへ勧請奉る。その後同僧正の時、下醍醐へ移し奉る。ときに帝王、正一位をくださる。」(註:真福寺大須文庫(北野山真福寺宝生院大須観音)https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100193541/viewer) 70年代より急速に教勢が伸長し、80年代後半には、公称信者数200万人と発表した。この頃より信者数200万人という数字がメディアから注目され取り上げられることが多くなったため、真如苑は、真乗の死を期に、信者数を実数に合わせ、下方修正し発表した。 1973年3月、真如苑初の海外支部がハワイ(アメリカ)に落慶した。1976年5月、醍醐寺金堂にて、真乗を導師として、醍醐寺開創一千百年慶讃法要が執行された。1978年10月、真乗がタイ国を訪問、上座部仏教と交流を深めた。1979年3月、立川総本部に十一面観世音菩薩を本尊とする発祥第二精舎が落慶した。6月には、真乗が欧州5カ国を巡教、1980年5月にはハワイ、アメリカ本土に巡教した。 1983年10月、真如法燈継承の儀により、三女伊藤真聰、四女真玲が法流を相承した。1984年4月、醍醐寺金堂にて、真乗を大導師として、真聰、真玲を副導師として、弘法大師御入定一千百五十年御遠忌法要が執行された。1989年7月、教主真乗死去により、伊藤真聰が苑主・真澄寺首座を継承し、継主となった。
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