芭蕉や当時の俳壇との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)
「小林一茶」の記事における「芭蕉や当時の俳壇との関係」の解説
一茶が俳人として活躍していた時代、俳句界では芭蕉のことを尊崇し、神格化が進められていた。例えば寛政3年(1791年)、白川伯王家から「桃青霊神」の神号が芭蕉に授与され、文化3年(1806年)には朝廷から「飛音明神」の神号を賜った。その一方で俳句の大衆化は俳壇の俗化をもたらしていた。芭蕉の名を借りた怪しげな由来書などが幅を利かせ、よく言えば平明、悪く言えば低俗な句作が横行するようになった。 芭蕉の神格化と俳壇の俗化は、互いにリンクして更なる問題を引き起こした。風雅趣味の固定である。平均した季題による均質化した句が大量生産され、ほとんどの俳人はその流れに飲み込まれていった。閉塞感が高まりつつある社会の中で、ほとんどの俳人たちは重苦しい時代に対峙しようとはせず、かといって己の姿や生き様を見つめなおして句を詠もうともせず、芭蕉の劣化コピーともいうべき句作に明け暮れた。一茶と同時代の名が通った俳人である夏目成美、鈴木道彦、建部巣兆らの作は、高い教養に基づく技巧的には完成度が高く、よくまとまった句を詠んだ。しかしそれぞれ生命感に乏しく、名前を入れ替えてみても通ってしまいそうな作品しか残せなかった。 一茶はこのような俳壇の中にあって一生涯芭蕉のことは敬っていた。俳諧に身を投じて以降、一茶は芭蕉の句作を学んだ。特に30代までの一茶の作品には芭蕉の影響が色濃い。しかし芭蕉と一茶とでは個性が大きく異なり、また時代背景も全く違う。やがて一茶は、一茶調と呼ばれるようになる独自の句作を押し進めていくことになる。芭蕉の存在は尊重しながらも、ある意味芭蕉離れ、芭蕉との訣別を経て、一茶は自らの俳句を詠むようになったと考えられている。当時進んでいた芭蕉の神格化についても追随していたとは考えにくい。 独自の俳風を確立していく中で、当時の俗に流れる俳壇の風潮が影響を与えた点も大きい。例えば俗語や口語、方言の多用は当時流行していた田舎風の俳諧との関連性が指摘できるし、また諷刺的な内容の句が見られることや季題を重要視しない点などは雑俳、そして川柳との類似性も認められる。また一茶の俳風に大きな影響を与えたと考えられるのが芭蕉以前の俳句であった。俳句のルーツともいうべき山崎宗鑑、そして貞門派、談林派について学び、技術的には季の扱い方などを参考にし、そして俳諧が本来有していた滑稽の精神を蘇らせた。一茶の句作における挑戦は、当時の大衆化した俳壇のエネルギーを取り込むとともに、また一面では俳句の原点回帰でもあった。 また一茶の場合、当時の俳壇主流とは決定的に異なるのが、一茶は人間の肉声を句に詠んでいったことである。このような挑戦を可能としたのは、野性味溢れる一茶の個性と、人間生活全般に対する強い関心であった。一茶の挑戦は成功し、大衆化の反面、通俗化、マンネリ化が著しかった当時の俳壇にあって、真の生命感を持つ、独自の世界を句に詠むことに成功した。
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