舞台での最期
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1673年2月10日、モリエールの白鳥の歌となる『病は気から』の初演が開始された。初日から興行成績は好調であったが、それとは対照的にモリエールの体調は取り返しのつかない状態にあった。すでに死期は近く、咳も日を追うごとに激しくなっていった。 2月17日は4回目の公演が行われる日であった。この日も大勢の客が観劇に来ている。ところがこの日、モリエールはいつもに増して朝から元気がなかった。ジャン=レオノール・グリマレによれば、彼はこの日の公演前、妻であるアルマンド・ベジャールと可愛がっていた愛弟子のミシェル・バロンをそばに呼び寄せて、以下のように述懐したという。 私の生活に苦しみと喜びが混じり合っている間は、自分は幸福だと考えてきた。だが今日は、苦痛に打ちのめされたような感じがする。満足や和らぎを期待できる時が来るとはどうしても思えない。こうなってはもう諦める以外にない。悩みが悲しみが、息もつかず攻め立てて、私はこれ以上我慢できなくなった。人間というものは死ぬ前にどんなに苦しむことだろう。ともかく、私にはよくわかっている。自分の死期が近いのだということが。 アルマンドとバロンは彼の顔色の悪さに驚いて出演を見合わせるように勧めたが、「私が出演しなかったら、劇場で働いている50人の人たちはどうなるのだ…」として、モリエールは取り合わなかった。コンデ大公や外国の要人も臨席していたし、劇団員や劇場の使用人たちを路頭に迷わせるわけにはいかないと考えたのであろう。結局出演を強行したモリエールだったが、演技の最中に激しい咳の発作に襲われ、それを隠そうとして彼の顔は苦しそうに痙攣を起こした。観客もそれに気づいて息を呑んだという。舞台を無事に終えると、モリエールは部屋着に身を包み、バロンの楽屋へ休みにきた。彼の手は氷のように冷たく、寒いと訴えたので、急いでリシュリュー街の自宅に担ぎ込まれた。バロンがそれに付き添っていたが、モリエールは自宅に着くと、バロンが勧めた熱いスープではなく、ひとかけらのパンとパルメザンチーズを欲しがった。そうして横になっていると、再び痙攣に襲われた。痰を吐こうとしてもがき苦しむうちに、大量に吐血をしはじめた。モリエールはそばにいるバロンに向かって、次のように言ったという。 何も怖がることはない。私はこれまでにもっとひどい喀血をしたこともあるのだから。さあ、アルマンドを呼んできてくれないか。 こうしてバロンはアルマンドを呼びに行った。モリエールの自宅があるリシュリュー街の建物には、たまたまアヌシーから義捐金を集めに来た2人の修道女が泊まっていたが、彼女たちが物音を聞きつけて、モリエールの自宅に駆け込んできた。モリエールは苦しみながらも、最期の秘蹟を受けたいと彼女たちに告げた。モリエールの下男下女たちは主人の容態の急変、ならびに彼が最期の秘蹟を受けたがっていることを知って、それぞれ教区の司祭であるランファンとルショーを呼びに行ったが、相手がモリエールだと知って、秘蹟を授けることを拒絶した。一時間以上経って、ようやく秘蹟を授けることを承諾した司祭ペイザンを連れてきたときには、モリエールは修道女たちに看取られて、息を引き取っていたのであった。享年51歳。奇しくも、マドレーヌ・ベジャールの亡くなったちょうど1年後のことであった。 この当時は、俳優になった瞬間にカトリック教会から破門を宣告され、教会からの異端扱いが始まった。善良なカトリック教徒に戻るには、司祭の前で俳優業を棄てる旨を宣告しなければならなかった。そのような宣誓をする間もなく息を引き取ったモリエールは、扱いとしては異端のままこの世を去ったのである。そのため、カトリックの墓地に埋葬する許可を得られず、結局未亡人のアルマンド・ベジャールがルイ14世に請願することで、ようやく埋葬が許可されたのだった。 モリエールの死後、劇団は座長だけでなく、本拠地パレ・ロワイヤルの使用権をも失い、途方もない打撃を受けていた。アルマンドは、モリエールが全幅の信頼を置いていたラ・グランジュとともに、火事で劇場を失ってほとんど解散状態にあったマレー劇場の俳優を吸収し、彼らを率いてゲネゴー劇場へ移った。1680年、国王の命を受けて彼らは、かつてライバル関係にあったブルゴーニュ座と合併し、こうしてコメディ・フランセーズが創設されたのである。モリエールはその初代名誉座長に据えられた。現在においてもコメディ・フランセーズは「モリエールの家」と呼ばれている。
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