舞台での経歴
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「ガートルード・ローレンス」の記事における「舞台での経歴」の解説
1936年、カワードは自分とローレンスのために全10場からなる1幕ものの演劇『Tonight at 8:30 』を執筆し上演した。1937年、ローレンスはレイチェル・クロザーズ作の演劇『Susan and God 』に出演し、1939年、サムソン・ラファエルソン作のコメディ『Skylark 』に主演した。ローレンスはブロードウェイで上演する前に試験興行が必要と感じ、マサチューセッツ州デニスにあるケープ・プレイハウスで上演することとなった。試験興行はハーバード大学大学院生リチャード・オルドリッチが出演し、ローレンスと恋仲となった。1940年、ローレンスの誕生日に2人は結婚し、1952年にローレンスが亡くなるまで婚姻は続いた。2人はデニスとマンハッタンのタートル・ベイに居住していた。 1941年6月、ローレンスの娘がニューヨークの医師と結婚した。結婚式はデニスの自宅で行われた。1992年の娘婿の回顧録によると、ローレンスは娘婿と仲が良かったが、1950年に娘と離婚して以降疎遠となった。ローレンスには生前孫は生まれなかった。 1941年、『闇の貴婦人(英語版)』で再びミュージカルに出演した。当初この作品はモス・ハート演出、クルト・ヴァイル作曲、アイラ・ガーシュウィン作詞によりキャサリン・コーネルのための音楽を使用した演劇作品となる予定であったが、第1幕が完成する頃、この作品はミュージカルに適していると判断し、コーネルでは実力不足であった。その直後ハートはイギリスへの慰問のための資金集めのレヴューのリハーサルをしていたローレンスと会い、精神分析を受ける雑誌編集者のライザ・エリオット役をオファーした。 作品はとても大がかりなものとなり、ローレンスの歌、ダンス、演技の実力が上がった。『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙のリチャード・ワッツは「アメリカの舞台芸術界最高の女優」と記し、『ニューヨーク・タイムズ』紙のブルックス・アトキンソンは「女神」と評した。ローレンスはブロードウェイ公演だけでなく、続く3年間全米ツアー公演に出演した。 数十年後、アイラ・ガーシュウィンは作曲史家シャイラ・デイヴィスに、ローレンスが『闇の貴婦人』の使用楽曲『My Ship 』の歌詞を洗練させるのにいかに寄与したかを語った。リハーサル中、デイヴィスは「ローレンスは突然曲の途中で歌うのをやめ、オーケストラの所で見ていたガーシュウィンを呼んだ。「なぜライザは「4年も(four years)待つことができた」と言うの?5年や6年ではなく」と言った。「歌詞は「何年も(for years)待つことができた」だったのだけれども。真面目なガーシュウィンは曖昧さを避けるためすぐに「何年も(the years)」に変更した」と記した。 1945年、ジョージ・バーナード・ショー作『ピグマリオン』再演にてヘンリー・ヒギンズ役のレイモンド・マッセイの相手役であるイライザ・ドゥーリトル役を演じた。当初ショーはローレンスがイライザ役を演じることに反対していた。ブロードウェイ公演後、1947年5月まで北米ツアー公演を行なった。
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