自由民主党の失墜と体制の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 03:37 UTC 版)
「55年体制」の記事における「自由民主党の失墜と体制の崩壊」の解説
自由民主党は議席数で漸減傾向を示しつつも第1党・政権与党の座は維持し続けたが、長期政権下で汚職が続発し、政治不信を招き始めた。さらに、派閥間の勢力均衡が田中角栄によって崩され、自由民主党自体が混乱していった。1983年(昭和58年)の総選挙では自民党が敗北し、新自由クラブと連立政権を組むが、1986年(昭和61年)の総選挙で自民党が勝利し、再び自民党単独政権となり党勢は一時的に回復した。しかし、1989年(平成元年)から1992年(平成4年)にかけての世界規模での冷戦体制の崩壊と並行して、バブル崩壊とそれに伴う経済不振に、なおやまない政治不信が自由民主党の支持を低落させた。 日本社会党は土井ブームなどにより一時的に勢力を回復したが、やがて長期低落傾向に復する。自由民主党の失墜と、それに取って代わる実力を持たない日本社会党の不振は、体制への不満と無力感を著しく高め、無党派層、そして政治そのものへの無関心層の増大を生んだ。 さらには、1988年(昭和63年)のリクルート事件や1992年(平成4年)の東京佐川急便事件により、国民の政治不信が頂点に達する。これに対し海部内閣・宮澤内閣が政治改革関連法案を提出するが、いずれも最終的に廃案となった。そして宮澤内閣の政治改革関連法案の廃案に反発した自由民主党議員が大量に離党、羽田孜・小沢一郎らによる新生党や、武村正義らによる新党さきがけが結党されるに至った。その結果、内閣不信任決議可決による衆議院解散(嘘つき解散)を受けた1993年(平成5年)の総選挙で自由民主党は大幅に過半数を割り込む結果となった。また、日本社会党も惨敗した。 それに対し、自由民主党離党者による新生党、新党さきがけ、細川護熙率いる日本新党が躍進し、「新党ブーム」を巻き起こした。総選挙前に連立協議をしていた新生党、日本社会党、公明党、民社党、社会民主連合は、日本新党の細川を首相とすることで合意し、自由民主党との連携を模索していた日本新党、新党さきがけがこれを受諾し、1993年(平成5年)8月9日に細川内閣が成立し、自由民主党は初めて野党に移行した。これをもって、38年間にわたって続いた55年体制は崩壊した。 ただし、55年体制の定義の差により、体制終了の時期には他に諸説もある。一般的には上記の細川政権が発足した1993年8月9日をもって崩壊とするが、自民党と社会党が連立して自社さ連立政権が発足した1994年(平成6年)6月、衆議院第二党が社会党に代わり新進党となった1994年12月も挙げられることがある。いずれにせよこの時期(1993年 - 1994年)以降、戦後長らく続いてきた政治体制は大きく変わっていくことになる。
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