自娯の晩年とは? わかりやすく解説

自娯の晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 14:36 UTC 版)

渡辺省亭」の記事における「自娯の晩年」の解説

師・容斎とは対照的に弟子取らず水野年方1,2入門しただけという)、親友呼べ画家平福穂庵平福百穂の父)と南画家菅原白龍くらいで、一匹狼立場貫いた。これは容斎が、他人悪口ばかり言いあう画家交際するよりも一芸秀でた者と交われ、との教え守ったためとする説もあるが、単に省亭の性向よるものにも見える。そのため言いたいことは歯に衣着せず言え大正2年1913年第7回文展出品され竹内栖鳳横山大観川合玉堂らの作品を、技法技術面から画家不勉強指摘している。例えば、今日名作とされる栖鳳の「絵になる最初」(京都市美術館重要文化財)を、「先ず評判栖鳳見ましたね、いけない、あれは駄目だ、此前の「あれ夕立に」か、あれもそんなに佳いとは思わなかったが、今のよりはずっとよかったあの時丈が一寸足りないと思ったが、今のは又ひどい、第一着物いけませんよ、どうも塗り損なひぢゃないかと思う、それでなければ衣文の線がもっと見えなけりゃならない、一体あの紺と云う色は日本絵の具にはないのだからね、きっとありゃ塗り損ひだよ、うまく行かないから濃い墨で塗りつぶす、其上にをかけると丁度あんな紺に見えます、私もよくやった覚があるが……ハッハッ、それにあの手が骨ばって、女の手は肉で包んでなけりゃね、栖鳳云う人は動物描けるが人物描けない人らしい、顔は大いし髪が又ひどいし、髪は生際が一番でね、西洋画ならいいが日本画ぢゃ生際が出来なければ髪が描けるとは云はれない、それから上方ではどうか知らぬがあの中を障子にして、上下キラキラ型紙のある……あれは東京では引出茶屋にしか有りません、キラキラ型紙云う奴がまた一番安っぽいものでね……」と談じている。 省亭にはさくの他にもう一人の妻がおり、そちらの家は外面上はアトリエとし、没するまでの30年渡りそれぞれの家に通い続けた。こうして悠々自適作画制作楽しんだ後、脳溢血倒れ尿毒症腎臓炎併発日本橋浜町自宅68歳亡くなった墓所台東区潮江院。法名法華院省亭良性修良居士。省亭の忌日を、親し人々花鳥忌と呼んだという。省亭の作品当時来日外国人好まれ多く海外へ流出したメトロポリタン美術館ボストン美術館大英博物館ヴィクトリア&アルバート博物館ライデン国立民族学博物館ベルリン東洋美術館ウィーン工芸美術館など、多く国外美術館博物館に省亭の作品所蔵されている。

※この「自娯の晩年」の解説は、「渡辺省亭」の解説の一部です。
「自娯の晩年」を含む「渡辺省亭」の記事については、「渡辺省亭」の概要を参照ください。

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