翻訳の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 14:35 UTC 版)
アヘン戦争・アロー戦争後に締結された不平等条約によってすでに多くの実利を得た列強にとって、清朝が国際法を学ぶことは無論望ましいことであった。清朝が国際法を学び遵守するのであれば、再度大規模な砲艦外交に頼らずに交渉のスムーズ化と安定化を図れると考えたためである。このため『万国公法』を紹介しようとする動きは、まず欧米側から起こった。当時の総税務司として上海にいたロバート・ハート(Robert Hart、中国名:羅伯特•赫徳)は Elements of International Law の一部を翻訳し清朝に提供している。 一方でアロー戦争後まで中国は中華思想に基づいた唯我独尊的外交姿勢を守り続け、国際法や条約といった近代的国際関係に不可欠な概念を積極的に取り込もうとはしなかった。しかしアロー戦争の結果締結された天津条約や北京条約によって、清朝は少なくとも外交制度上は西欧諸国を自国と対等な存在として認めざるを得なくなる。具体的には、それまで清朝は諸外国を中華思想的価値観から「夷狄」とみなしていたが、清朝の公文書に西欧諸国を指して「夷」と表記することを禁じ、同時に総理衙門という近代的国際関係を担う外交機関を設けた。 このような清朝の外交方針の大転換は、アロー戦争後の清朝の政局を主導した恭親王奕訢や文祥たちによって進められた。彼らは講和交渉を担った満洲族系の大官であり、講和後新設された総理衙門の中枢に陣取り、外交および近代化政策を取り仕切った。恭親王たちは元々対外戦争に反対し、現実路線の外交を展開しようとした穏健派である。また同時期太平天国の乱を鎮圧した曽国藩や李鴻章ら地方の大官も西欧の先進技術を学ぶ重要性を認識し、軍事・産業方面の近代化を推し進めていた。これを洋務運動という。すなわち1860年代以降の清朝は、西欧の諸知識・技術を摂取しようという機運が高まっており、国際法への関心もその延長線上にあるものであった。清朝側が外交交渉を西欧列強のスタイルに合わせるのであれば、彼らの価値観・行動原理を知らねばならない。そこで求められたのが国際法の解説書であった。ただこの国際法受容は、はじめは近代国際法の理念に共鳴して率先してそれに参加しようとしたものではなかった。というのも西欧列強との交渉においては、清朝がいくら「天朝の定制」(中華思想的慣例)を持ち出しても議論が噛み合わず、列強側の要求を拒絶することはできなかったため、列強間で通用している国際法を逆手に取ることで外交交渉を有利に運ぼうという意図からなされたもので、多分に理念よりも道具、華夷秩序を保持するためのツール、としての受容というニュアンスが強かった。そのためこのような国際法受容を「夷の長技を師とし以て夷を制す」(夷狄の得意技を学び、それにより逆に夷狄を制覇する。魏源著『海国図志』の一節)の外交バージョンと評することもある。
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