群馬県進出
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1920年代に入ると長野電灯は合併を積極化させた。まず1921年8月1日、北佐久郡岩村田町にあった東亜電気黒鉛株式会社を合併した。合併に伴う増資額は10万円。東亜電気黒鉛は1920年3月30日に資本金100万円をもって設立された会社で、カーボン・人造黒鉛の製造や電力販売を目的としており、北佐久郡伍賀村大字広戸(現・御代田町)の湯川に水利権を持っていた。同地点は広戸発電所(出力1,500 kW)として開発され、1926年1月に運転を開始した。ただし湯川ではこれに先んじて北佐久郡西長倉村(現・軽井沢町)に長倉発電所(出力520 kW)が建設され1924年(大正13年)12月に運転を開始している。佐久支社管内では両発電所以外にも北牧村で大月川から取水する松原発電所 (450 kW) が1925年(大正14年)8月より運転を始めた。 長野電灯は東亜電気黒鉛に続いて1923年(大正12年)12月1日、群馬県の電力会社西毛電気と西毛電力・上信電気の計3社を合併した。合併に伴う資本金増加は計80万円であり、合併後の資本金は340万円となっている。3社のうち西毛電気は1909年(明治42年)1月20日、群馬県碓氷郡安中町(現・安中市)に資本金10万円で設立。完成直後の発電所が水害で流出したため開業が遅れたが、群馬県境に近い坂本町(現・安中市)に高芝発電所を建設し1911年10月1日開業に漕ぎつけた。最終的な西毛電気の供給区域は安中町・坂本町や北甘楽郡富岡町(現・富岡市)・下仁田町など碓氷・北甘楽両郡にまたがる計28町村。資本金は1919年以降30万円で、社長は開業以来安中の湯浅三郎(醸造業経営)が務めていた。西毛電力・上信電気はいずれも安中に設立された水力発電を目的とする会社で、前者は1923年3月16日、後者は同年6月10日の設立。資本金は両社とも40万円で、湯浅が代表取締役を兼ねた。 西毛電気の合併に伴い、長野電灯では安中町に西毛支社を設置した。合併時、西毛支社管内には高芝 (120 kW)・坂本 (50kW) 両水力発電所と予備ガス力発電所の富岡火力発電所 (60kW) があったが、東京電灯からの受電契約が最大500 kWあり自社発電力を上回っていた。そこで長野電灯では合併半年後の1924年5月に佐久支社管内の発電所と西毛支社管内の変電所を連絡する送電線を新設し、佐久支社側から700 kWの送電を始めて東京電灯からの受電を廃止した。連絡線完成後、西毛支社管内の発電所は1925年4月に富岡発電所が廃止され、1932年(昭和7年)8月には高芝・坂本両発電所も廃止となった。 西毛電気ほか2社に続く合併は信州電力株式会社の合併で、1924年10月1日付で実施された。合併に伴う20万円の資本金増加のほか、同社合併が決議された7月の株主総会にて390万円の増資も同時に決議されており、資本金は750万円となった。信州電力は前年12月に設立されたばかりの会社で、資本金は100万円、本店所在地は長野電灯と同一である。 事業規模が拡大しつつあった中の1923年9月、社長の花岡次郎が死去。後継社長には同月末から小坂順造が就任した。小坂順造は初代会長小坂善之助の長男で、1908年に帰郷し父が関係する信濃銀行の常務に就任して以来長野の財界で活動し、他方で父同様に衆議院議員に当選して財界人と政治家を兼ねた人物である。長野電灯では1909年1月取締役に就任、1918年10月に一旦辞任したが、1923年1月より取締役に復帰していた。さらに翌1924年1月には諏訪部庄左衛門と湯浅三郎が常務取締役に就任した。
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