編纂年の時代背景とは? わかりやすく解説

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編纂年の時代背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 09:59 UTC 版)

吾妻鏡」の記事における「編纂年の時代背景」の解説

編纂年代推定される正安2年1300年)頃はいわゆる得宗専制」の時代である。村井章介鎌倉幕府はこの時期、進むべき道が見出せなくなっていったとするがその点を次ぎ見てゆく。 弘安7年1284年4月北条時宗34歳若さ病死したとき嫡男貞時はまだ少年であり、外戚得宗被官幕府事務官僚のトップによる「寄合」が得宗権力代行する最高決定機関となる。しかしその中で権力闘争弘安8年1285年11月霜月騒動となって外戚安達氏滅び正応6年1293年4月平禅門の乱では長じた9代執権北条貞時得宗執事内管領)の平頼綱を討つ。その後は貞時を北条庶流名門幕府実務官僚らが取り囲んで政策決定行っている。 永仁5年1297年)に永仁の徳政令発布がある。幕府基盤御家人であったが、この時期分割相続制により中小御家人零細化し貨幣経済進展にも翻弄され崩壊初め所領手放す者も多く幕府への「奉公」もままならなくなる。それに対し永仁の徳政令所領手放すことを禁じ、既に手放した所領旧来の状態に戻すという御家人体制維持力点があった。そうした先の見えない状況の中で『吾妻鏡』編纂開始されている。 嘉元2年1304年7月以前『吾妻鏡』編纂未完のまま停止されと見られるが、五味文彦は「歴史振り返るよりも現実歴史のほうがどんどん急動して、もう振り返って見ているどころではなくなった」からではないかとする。嘉元3年1305年)には宣時の後に連署となったもう一人重鎮北条時村を、得宗被官御家人一団が「仰ト号シテ殺害する嘉元の乱である。『保暦間記』によれば嘉元の乱犯人北条宗方とされるが、事態それほど単純ではなく、むしろ得宗貞時とその側近宗方らと寄合衆内の北条庶流対立による抗争であり、結果的に仕掛けた貞時側が敗北したとの見方もある。尚、「未完のまま停止された」と見る理由のひとつには頼朝将軍記最後3年が無いことが挙げられる鎌倉時代末期から南北朝時代金沢文庫での作成思われる目録にふられた巻数はこの3年飛ばしている。それが散逸よるものか、あるいはそもそも編纂されなかったのかについてはそのどちらにも確たる証拠は無いが、益田宗は「もともと編纂されたかどう疑わしい」とする。

※この「編纂年の時代背景」の解説は、「吾妻鏡」の解説の一部です。
「編纂年の時代背景」を含む「吾妻鏡」の記事については、「吾妻鏡」の概要を参照ください。

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