続く報道被害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/05 03:03 UTC 版)
一橋大学名誉教授であった植松正は、Aの前途について「犯人でないという証明書を持っているようなものだから、人から白眼視されるなどという心配は全くない」「むしろ〔脅迫事件を起こすような犯罪傾向から〕これを機会に更生できるかもしれない」と楽観的に書いた。しかし実際には、Aとその親族はなおも続く報道被害に苦しみ続けた。 事件後、Aは当時勤務していたカナダ小麦局を退職した。しかし、「三億円事件重要参考人」のレッテルが剥がれることはなく、勤め口を失ったAはアルバイトを転々とした。マスコミも、毎年12月が来るたびに取材を繰り返した。「黙ってたって載せるんだぞ」と怒鳴る記者もおり、郵便受けには「中にいるのだから出てこい」とのメモも入れられた。廃品回収をすれば「三億円が廃品の中にあるといいね」と声をかけられ、タクシー運転手をすれば「やっぱりお前が犯人だろう」と客に絡まれたという。 警察から関係を事情聴取されたことによって親しい友人も失い、兄弟の縁談も破談となった。身内からは自殺未遂者も出し、Aは唯一の味方であった肉親からも白眼視されるようになった。誤認逮捕から3か月後の1970年3月には、銀座の宝石店「天賞堂」の社長を名乗る人物から「人柄を見込まれて」養子縁組をされた。しかしこの人物は会社の経営権を実子に奪われており、Aの養子縁組もマスコミの注目を集める政争の具に過ぎなかった。2年後、Aは投げ出される形で養子縁組を解消され、その経過もまた逐一マスコミに報道された。 翌1971年1月にAは、励ましの手紙を貰ったことで知り合った女性と結婚した。しかし、家庭では子供を幼稚園にも通わせられず、ポストには南京錠を幾つも付け、昼間からカーテンを閉め切って過ごす日々であったという。Aの妻はAが定職を得るまでの7年間夫と3人の子供を養い、毎日新聞の配達員をしなければならない時期さえあった。Aの妻は心労から3回の手術・入退院を繰り返し、また夫妻の長男は小学校低学年の時、有刺鉄線に頭を突っ込んで自殺を図っている。 そしてついに1984年(昭和59年)、『アサヒ芸能』10月11日号の記事がA一家を取り上げ、Aの顔写真や家の全景写真とともに干した洗濯物の種類までを書き立てた。「犯罪者たちの経歴」と題されたこの記事に、Aは衝撃の余り入院を余儀なくされた。同年12月、夫妻は居住地の市役所と交渉し、第三者が一家の戸籍と住民票を閲覧することができないようにした。そして1986年(昭和61年)4月、夫妻はマスコミから子供たちを守るために離婚した。 私たちは何も悪いことをしていない。報道による被害者なのにマスコミの人に「そっとしておいてください」「もう私たちを苦しめないでください」とどうして頭を下げて頼まないといけないんだろうといつも思います。何も優しい言葉はいりません。ただ(取材、報道、放映しないという)無言の優しさをください — 1984年の「取材拒否宣言」に当たっての、A夫妻のコメント
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