結成 - 活動
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アラン・タネールとクロード・ゴレッタが、ジュネーヴのフランス語圏向けテレビ局であるテレヴィジオン・スイス・ロマンドで出会った同い年のジャン=ジャック・ラグランジュ、9歳若いジャン=ルイ・ロワ、そしてミシェル・ステーと設立した映画の製作会社が、「グループ5」である。 「フリー・シネマ」の文脈からヴェネツィアで国際的評価を得たタネールとゴレッタ、最年少ながらすでにカンヌでの評価を得たロワ、パリの空気を呼吸して帰ってきて、長篇を連打し始めたヴァイタリティあふれるステー、すでに局内で重鎮になりつつあったラグランジュ。さっそく準備を始めたのは、タネールの長篇第一作『どうなってもシャルル』である。ヴヴェ生まれの映画監督フランシス・ロイセール監督の長篇第一作『Vive la mort』で撮影監督としてデビューしたばかりのレナート・ベルタを起用、テレヴィジオン・スイス・ロマンドとスイス放送(SRG)の出資を得て完成、1969年、ロカルノ国際映画祭で最高の金豹賞を受賞した。 つづいて1970年、ゴレッタの長篇第一作『Le Fou』をテレヴィジオン・スイス・ロマンドとの共同製作で発表、スイス批評家連盟賞。ステーの長篇四作目はアラダ・フィルムとの共同で『James ou pas(ジェームズか否か)』を製作、1970年第23回カンヌ国際映画祭パラレルセクションに出品。同年、ロワの長篇第二作『Black Out』も同局ほかの出資を受けて製作、翌1971年の第20回ベルリン国際映画祭コンペティション部門に出品された。 1971年、ラグランジュが脱退、1942年ローザンヌ生まれ、29歳のイヴ・イェルサンが加入。 1972年、ステー監督の『Les Arpenteurs(測量師)』をテレヴィジオン・スイス・ロマンドと共同で製作、同年の第25回カンヌ国際映画祭コンペティション部門で上映される。コンペティションの審査員にはタネールがいる、という事態が起きる。同年、タネール監督の『アフリカからの帰還』を製作、翌1973年、第23回ベルリン国際映画祭ニューシネマフォーラム部門でインターフィルム賞およびOCIC賞を受賞する。 1973年、ゴレッタ監督の『招待』をシテール・フィルム、プランフィルムと共同製作、同年の第26回カンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞した。 このあたりから、1972年からのロワの局内でのドキュメンタリーへの専念が始まり、ステーもテレビ映画やドキュメンタリー映画が増え、イェルサンもフリーのテレビ演出家としての仕事が多く、タネールの『サラマンドル』(1971年)やゴレッタの次回作にも外部のプロデューサーがつきはじめる。ステー作品の撮影監督であったシモン・エデルステインが、1973年には監督デビュー(『Les Vilaines manières』、製作イヴ・ガッセー)する。時代はわずか5年の間で確実に変わった。前述のようにタネールは1972年の第25回カンヌ国際映画祭の、ステーは1974年の第27回カンヌ国際映画祭の審査員をそれぞれつとめるにいたる。1978年にはゴレッタも第31回カンヌ国際映画祭の審査員をつとめるのだが、それはまたのちの話である。 まさにスイス映画の台風の目となり、国際的な快進撃をつづけた小さな製作会社「グループ5」はその役割を終えてゆくが、同世代のドイツ語圏のフレディ・ムーラー、ダニエル・シュミットらを含めた「ヌーヴォー・シネマ・スイス」は1970年代につづき、1979年には、おなじレマン湖畔に、ジャン=リュック・ゴダール、アンヌ=マリー・ミエヴィルを迎えることとなる。
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