結成・混乱期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 06:06 UTC 版)
1949年(昭和24年)4月、博徒・網島一家(五代目総長・鶴岡政次郎)の代貸だった稲川角二(のちの稲川聖城)が、静岡県熱海市の老舗博徒・山崎家一家(四代目総長・石井秀次郎)の縄張りを引き継ぎ、同市咲見町で稲川組を結成。事務所の看板は「稲川興業」とした。 1959年(昭和34年)、稲川興業の看板を掲げて東京に進出。このとき稲川組を主体とし、東海道の鶴岡政治郎系の一家を纏めて鶴政会を結成する。組織名は鶴岡政次郎の名に因んだものである。 1963年(昭和38年)、さらに稲川組を中核として政治結社・錦政会が結成される。 1965年(昭和40年)、警察による第一次頂上作戦で稲川聖城らが逮捕され、錦政会を解散する。一方で、稲川組は稲川一家に改称された。 1972年(昭和47年)、稲川一家理事長・石井隆匡と三代目山口組若頭・山本健一が五分の兄弟盃を交わしたことで、山口組と親戚関係になる。同時に稲川一家の組織名を現行の稲川会に改称し、本部を東京都港区六本木に設置した。 1985年(昭和60年)10月、稲川会は代替わりし、理事長・石井隆匡が二代目会長となり、前会長の稲川聖城が総裁に就任。なおこれ以降、稲川聖城は2007年まで終身で総裁を務めた。
※この「結成・混乱期」の解説は、「稲川会」の解説の一部です。
「結成・混乱期」を含む「稲川会」の記事については、「稲川会」の概要を参照ください。
- 結成・混乱期のページへのリンク