精錬法の伝来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 07:21 UTC 版)
戦国大名は戦費調達に多額の資金を必要とするようになり、小額貨幣である銅貨は用途に適さなかった。そこで金山と銀山の開発がすすみ、領国貨幣が戦国大名により作られるようになる。大陸に由来する精錬技術である灰吹法の普及は、金銀の産出量に大きな影響を与えた。古代から銀鉱脈で知られていた石見銀山の採掘が16世紀前半に再開されると、対馬や壱岐を経由して李氏朝鮮と貿易をしていた博多や、朝鮮半島へ鉱石が運ばれて精錬が行われた。石見銀山の発見を記した『銀山旧記』によれば、博多の商人である神屋寿禎が宗丹と桂寿(慶寿の表記もあり)という技術者を石見に連れてきており、これが灰吹法の伝来とされる。その後、灰吹法が但馬の生野銀山など各地に伝わって産出が増えると、銀は畿内や九州で流通する。さらに、外国との取り引きが行われる貿易港や、外国の産物が集まる交易地で用いられるようになった。金銀の大量生産が可能となった反面、灰吹法に必要な鉛が不足するようになって鉛鉱山の開発が進み、鉛の輸入も行われた。輸入元の鉛は、朝鮮半島、中国華北と華南、タイのソントー鉱山をはじめとするタイ産やマレー産だった。 東日本では、甲斐や駿河、伊豆で金が採掘され、佐渡金山はのちの江戸時代から本格化する。戦国大名のなかには、春日山城に金を蓄えた上杉謙信や、甲州金と呼ばれた金貨を流通させた武田信玄(晴信)、加賀小判や軟挺銀(はいぶきぎん)を発行した加賀前田氏なども現れた。大口取引には砂金および灰吹銀が用いられ、砂金は碁石金や竹流金と呼ばれる金貨に溶融整形され、これを打ち延して蛭藻金、さらに打ち延され判金として使用された。当時は東日本で金山が多く、西日本で銀山が多かったために金の使用圏が東日本に、銀の使用圏が西日本に集中して、江戸時代にも影響を与えた。
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