石見銀山の発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 02:16 UTC 版)
石見銀山の発見について『石見銀山旧記』は鎌倉時代末期の1309年(延慶2年)に周防の大内弘幸が石見に来訪して北斗妙見大菩薩(北極星)の託宣により銀を発見したという伝説について記しており、この頃からある程度の露天掘りがなされていたと考えられている。それも、「杣の山の深谷に数千貫湧き出したる白銀」を取ったというから、銀鉱が露出した天然銀であったようである(『丸山伝記』)。 その後、大内氏が一時的に採掘を中断していた石見銀山を再発見し、本格的に開発したのは博多の大商人、神屋寿禎(博多三傑・神屋宗湛の曽祖父。姓については神谷、名については寿貞・寿亭とも表記される)であるとされている。海上から山が光るのを見た神屋は、領主・大内義興の支援と出雲国田儀村の銅山主・三島清右衛門の協力を得て、1527年(大永6年)3月、銀峯山の中腹で地下の銀を掘り出した。 義興の死後、大内義隆が九州経営に気を取られている間、1530年(享禄3年)に地方領主・小笠原長隆が銀山を奪ったが、3年後に再び大内氏が奪回した。大内氏は山吹城を構えて銀山守護の拠点とした。 1533年(天文2年)8月、神谷寿貞は博多から宗丹と桂寿を招き海外渡来の銀精錬技術である灰吹法により精錬された。この技術でより効率的に銀を得られるようになり、全国の鉱山に伝えられ、日本における銀産出に大きな貢献をすることになる。灰吹法確立以前は、鞆ヶ浦(仁摩町馬路)・沖泊(温泉津町)から鉱石のまま積み出され博多湊などで取引された。灰吹法が広まることにより、酸化鉛の粉塵を吸い込んだ作業員は急性または慢性の鉛中毒を発症した。鉱山での劣悪な環境も相まって、当時の鉱夫は短命であり、30歳まで生きられた鉱夫は尾頭付きの鯛と赤飯で長寿の祝いをしたほどであった。大森地内には若くして死んだ鉱夫たちの慰霊を目的として各宗派の寺院が多数建てられ、鉱夫たちの家族構成はその多くが独身もしくは夫婦のみであったと伝えられていた。
※この「石見銀山の発見」の解説は、「石見銀山」の解説の一部です。
「石見銀山の発見」を含む「石見銀山」の記事については、「石見銀山」の概要を参照ください。
- 石見銀山の発見のページへのリンク