石見銀山と忍原
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/28 10:20 UTC 版)
石見銀山は江戸幕府が天領とするまでは商人の独自権益であり、毛利氏・尼子氏などの諸大名はその産する銀鉱石(後には銀そのもの)を輸送する津料(通行税)を徴収していた。その権利を確保するために銀山のすぐそばに大内氏が山吹城や矢滝城を築いた(銀を産する山の方が両城より標高が高いが鉱夫やその家族を殺傷することは不利益になるので、大名はこちらにはあまり手を加えなかったようである)。 石見銀山を確保するにあたり、大きな焦点になったのは山吹城であった。急峻な山頂に構えられた堅城である為、力押しは到底不可能であり落城させる手段は2つに限られた。 1・城主に有利な条件を提示して降伏させる。 2・兵糧攻めにして降伏させる。 1の方法が通用しない場合は2の方法で攻めることとなり、この2の方法が石見銀山を巡る争いの基本となった。石見銀山へと尼子氏が進軍するときに使う主要道(現:国道9号線)とT字状に交わる道(現:国道375号線)の途上に忍原は位置している。地元の資料には合戦場は当時、亀谷城(亀谷城山)を中心として周囲に鍛冶屋屋敷や武家屋敷を要する交通の要衝(すなわち経済の要衝)であったとある。 忍原の尼子側拠点である亀谷城が落城すると、山吹城(大田市大森町)を攻めている尼子軍への補給路を毛利軍によって絶たれるという事を意味していた(海路で兵糧を運ぶ場合は、城の周囲に展開する毛利軍を突破しなければならなかった。)。逆に言えば、忍原と亀谷城を尼子側が確保すれば毛利側の補給路を脅かすことなる。つまりは、石見銀山を確保するには両者共に忍原が戦略的には重要な価値を持っていたのである。
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