精錬転換・濃縮施設の役務運転終了
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「人形峠」の記事における「精錬転換・濃縮施設の役務運転終了」の解説
1973年のオイルショック期には、ウランの取引価格は高騰のピークを迎えた。ところが、1979年にアメリカで起きたスリーマイル島原子力発電所事故を契機に、ウランの国際的な取引価格は下落し、ピーク時の半分にまで値を下げた。この結果、経済的には、国内でウランを精製するよりも、海外から輸入するほうが安価で安定していることから、人形峠でのウラン鉱の採掘は中止されることになった。政治的な観点からは、稀少なウラン鉱を有事の際の資源として温存するという目的もある。 1998年(平成10年)10月に動力炉・核燃料開発事業団が核燃料サイクル開発機構に改組されると、当施設は人形峠環境技術センターに改組された。その翌年の1999年(平成11年)7月には精錬転換施設、2001年(平成13年)3月にはウラン濃縮原型プラントの役務運転が終了。閉山までに採掘された鉱石は約8万6000トンで、濃縮され取り出されたウランは84トンであった。取り出されたウランは核燃料製造の研究に用いられ、製造された核燃料は実験プラントで用いられて原子力の技術開発を支えた。2005年(平成17年)10月に日本原子力研究開発機構が発足したことにより人形峠環境技術センターとなった。 人形峠など各地のウラン探鉱活動で生じた、微量の放射性を帯びた残土は約45万立方メートル、約100万トンに達するとされるが、鳥取県内に長らく堆積されたままになっていることが1988年(昭和63年)に報道された。そのうち、旧東郷町 (鳥取県)(現湯梨浜町)方面(かたも)地区に残された約3000立方メートルについて地元自治体と動燃が撤去協定を結んだが、人形峠のある岡山県の承諾が得られず、搬送できないままとなっていた。訴訟により、2004年(平成16年)10月に撤去命令が出され、命令を実行できない期間中制裁金を科されることになった。2005年に残土の一部をアメリカへ移送して処理を行ったほか、2006年に人形峠の鳥取県側に残土処理施設を新たに建設してレンガに加工処理を行うことになった。 2008年に処理施設が完成し、搬出された残土は4月から日本原子力研究開発機構によってレンガに加工され、2010年12月13日までに約145万個が製造された。一般向けには「人形峠製レンガ」として販売している。このレンガにはごく微量のウランが含まれているが、レンガの放射線量は平均0.22μSv/hで花崗岩と同じ程度のため安全としており、文部科学省の新庁舎のほか、現在までに各地で花壇や歩道の整備などに使われている。また、妖精の森ガラス美術館ではウラン化合物を利用してウランガラスの製作を行っている。
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