第9代サパ・インカ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 17:52 UTC 版)
父の死後インカ帝国の唯一の統治者となった彼は、間もなくクスコ周辺の小国を恐るべき強国に再編する一連の軍事行動に着手した。息子にして後継者たるトゥパック・インカ・ユパンキと共同しての征服が非常な成功を収めたので、彼は「アンデス山脈のナポレオン」と呼ばれることもある。パチャクテクが1471年に死亡した時点で、帝国は南は現チリから北は現エクアドルまで、更に現在の国で言えばペルー、ボリビア及び北アルゼンチンの大部分も含んでいた。 その間、パチャクテクは、これまでのクスコ王国を新帝国「四つの邦(スウユ)」(タワンティンスウユ、インカ帝国の正式名称)に再編した。彼が創設した制度のもとで、アポと呼ばれる地方官がスウユ毎に配置され、スウユを支配した。これらの地方官の配下にトクリコクと呼ばれる地域の指導者がおり、各都市、谷、鉱山を運営した。スペインによる征服以前には、各アポの配下に約15人のトクリコクがいたが、パチャクテクが最初に組織した時点では、より少なかったと想定されている。また、権力相互間の監視均衡を図るため、軍隊と聖職者を系列毎に別々の首飾り(官職の標章)を創設した。 また、真に帝国を代表し大都市としての需要を満たすよう、クスコの大部分を設計し直し再建した。各スウユに対応し、各スウユに通じる道路を中心とした地区が設定され、貴族と移民は彼らの出身地に対応する地区で生活した。各地区は2つの二項対立(双分制)の組み合わせによって成立する三分制(セケ・システム)という構造になっていた。これは、全ての権限、空間等を上(ハナン、hanan)と下(ウリン、urin)に分けて考える、いわゆる双分原理によるものであり、下部も更に2分されることにより成立した構造である。皇帝、皇族はこのいずれにも属さない中心部に住んでおり、貴族もまた中心部に近い場所に居住した。コリカンチャ(太陽の神殿)やサクサイワマン城砦などのクスコ周辺の最も著名な記念物の多くは彼の在世中に建設されたものである。 パチャクテクは政治と軍事の才能に溢れていたが、帝位継承法を改良しなかった。彼の息子はパチャクテクが1471年に病状の悪化により死んだ後にも特に争いもなく帝位を継承したが、後の世代では、次代皇帝は内戦に勝つか他者を威圧するかして、地方官、聖職者、軍からの十分な支援を得ることで帝国の支配権を獲得しなければならなかった。 パチャクテクはまた、帝国の最遠部の占領のために大規模な移民計画により数十万人を移動させたと見なされている。これらの強制的な植民者は、インカ社会の最低階層におかれ、ミティマエと呼ばれた。ある意味では、インカ帝政は、非常に専制的かつ抑圧的であった。 マチュ・ピチュは彼の時代までのものであると信じられている。 彼はまた、都市を浄化する儀式であるシテュアにおける神に捧げる歌や詩の作者であった。ペドロ・サルミエント・デ・ガンボアは1つの詩を臨終の床におけるパチャクテクの作であると比定している。 園に百合と生まれて 百合の如く育ち 齢を重ね / 我は年老い死すべきとき 萎びて死にたり
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