第8、第9の哨戒 1943年4月 - 7月
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「スレッシャー (潜水艦)」の記事における「第8、第9の哨戒 1943年4月 - 7月」の解説
4月4日、スレッシャーは8回目の哨戒でジャワ海方面に向かった。この哨戒ではヌサ・ラウト島に向かい、人員を輸送してくる任務も与えられていた。しかし、5月1日に予定地点に到着したもののスレッシャーが輸送すべき人員の姿がなく、5月5日まで待ったが結局会合は失敗。5月11日、スレッシャーは司令部宛に「接触せず」と報告した。また、この哨戒で戦果を挙げることはなかった。5月23日、スレッシャーは50日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。 6月16日、スレッシャーは9回目の哨戒でセレベス海方面に向かった。この哨戒では、ネグロス島の抗日ゲリラに対する輸送任務も命じられていた。6月30日夕刻、スレッシャーはボルネオ島東岸でパラオに向かう第2603船団を発見。駆逐艦帆風が3隻の輸送船を護衛していた。19時ごろに魚雷3本を発射したが、いずれも命中しなかった。船団は北方に進路を変えたが、スレッシャーは翌7月1日未明に船団を再発見。2度目の攻撃をかけたが、またもや失敗に終わった。スレッシャーはなおも追撃し、19時38分ごろに北緯00度43分 東経119度35分 / 北緯0.717度 東経119.583度 / 0.717; 119.583の地点で3度目の攻撃を行い、帆風の艦首尾に魚雷を命中させた。スレッシャーは浮上して船団を攻撃しようと接近したが、防御砲火に阻まれて潜航を余儀なくされた。スレッシャーは船団を追跡し続け、日付が7月2日に変わった直後に北緯01度30分 東経119度30分 / 北緯1.500度 東経119.500度 / 1.500; 119.500の地点で船団から遅れていた陸軍船米山丸(板谷商船、5,274トン)に向けて魚雷を2本発射。1本が命中し、米山丸は大爆発を起こして沈没していった。7月5日にはセレベス島タンブ湾でタンカーを発見し、護衛艦がいなくなるのを待って魚雷を3本発射。魚雷はタンカーに命中したように思えたが、タンカーは備砲を威嚇発射しつつ高速で逃げていった。7月9日、スレッシャーはネグロス島西岸カトモウ岬の会合点に到着。闇に乗じて500ポンドの物資と40,000ラウンドに及ぶ弾薬をゲリラに渡し、ゲリラからは情報機関文書を預かった。スレッシャーは作業終了後、即座にこの場を去って哨戒を再開したあと東に向かい、途中でミッドウェー島に寄港した。7月28日、スレッシャーは42日間の行動を終えて真珠湾に帰投。オーバーホールのためメア・アイランド海軍造船所に回航された。終了後、スレッシャーは10月8日に同地を出航して、一週間後に真珠湾に到着した。
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