第2、第3の哨戒 1942年2月 - 6月
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 16:57 UTC 版)
「ガジョン (SS-211)」の記事における「第2、第3の哨戒 1942年2月 - 6月」の解説
2月22日、ガジョンは2回目の哨戒で東シナ海に向かった。3月10日に横浜、長崎とインドシナ半島、マニラ、上海を結ぶ交通路に到達したガジョンは、3月13日に北緯31度14分 東経128度06分 / 北緯31.233度 東経128.100度 / 31.233; 128.100の地点で小型武装商船を発見し、魚雷を2本発射するも命中しなかった。攻撃後、ガジョンに「新しいエリアに移動せよ」との命令が与えられて東方に移動する。新しいエリアに移動したガジョンは、空母加賀以下の機動部隊を待ち伏せたが、3月18日に至って「加賀は孀婦岩より東を回っただろう」との情報を受け取り、ガジョンは最初の哨戒海域へと戻る事となった。3月26日未明、ガジョンは北緯32度35分 東経127度18分 / 北緯32.583度 東経127.300度 / 32.583; 127.300の地点で輸送船富浦丸(日本郵船、3,821トン)に対して魚雷を3本発射し、うち2本が命中と判断される。攻撃された富浦丸は被害なく、「二発ノ砲撃ヲ受ケタルモ船体異状ナシ」と報告した。翌3月27日未明には北緯33度56分 東経127度30分 / 北緯33.933度 東経127.500度 / 33.933; 127.500の巨文島西方で輸送船日昌丸(南洋海運、6,526トン)に向けて魚雷を3本発射し、1本が命中したが魚雷は船体を貫通しただけで、日昌丸は巨文島へと避退していった。3月28日朝も攻撃が行われ、北緯31度54分 東経127度11分 / 北緯31.900度 東経127.183度 / 31.900; 127.183の地点で特設砲艦富津(とみつ)丸(摂津商船、2,933トン)に対して魚雷を3本発射したが回避され、逆に富津丸から爆雷攻撃を受けた。4月15日、ガジョンは52日間の行動を終えて真珠湾に帰投。乾ドックに入渠してオーバーホールすべきかどうかチェックされた。ところが、ガジョンは予定より3週間早くドックから出ることとなり、たった40時間で次期哨戒準備を終えた。艦長がハイランド・B・リヨン少佐(アナポリス1931年組)に代わった。 5月18日、ガジョンは3回目の哨戒でミッドウェー島西方に向かった。ガジョンはミッドウェー島に接近する日本艦隊とこれを迎え撃つアメリカ艦隊の間に立って、他の潜水艦とともに哨戒線を構成した。ガジョンは海戦で350年ぶりに負ける日本艦隊の姿を見ることも出来ただろうが、戦闘の混乱と誤爆の危険性から逃れるべく攻勢には出なかった。6月14日、ガジョンは20日間の行動を終えて真珠湾に帰投。艦長がウィリアム・S・ストローヴァル・ジュニア少佐(アナポリス1929年組)に代わった。
※この「第2、第3の哨戒 1942年2月 - 6月」の解説は、「ガジョン (SS-211)」の解説の一部です。
「第2、第3の哨戒 1942年2月 - 6月」を含む「ガジョン (SS-211)」の記事については、「ガジョン (SS-211)」の概要を参照ください。
- 第2、第3の哨戒 1942年2月 - 6月のページへのリンク