第1フェーズ:ボーア軍の攻勢(1899年10月-12月)
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1899年10月12日に宣戦が布告され、ボーア軍はそれ以降、1900年1月までの間にケープ植民地とナタール植民地に最初の攻撃を開始した。ボーア軍は、レディスミス(Ladysmith)、マフェキング(ロバート・ベーデン=パウエル指揮下の軍隊によって防衛されていた)およびキンバリーを包囲した。包囲による籠城生活が数週間に及ぶと、これらの街の兵士と市民にはたちまち食糧が不足し始めた。包囲されているこれらの街は、継続的な砲撃にさらされ、街路は非常な危険地帯となった。 この年の12月中旬は、英国軍にとって非常に困難な時期で、特に1899年の12月10日から15日は「暗黒の一週間」 (Black Week) と呼ばれる。この一週間で英国軍はマゲルスフォンテーン (Magersfontein) 、ストームベルク (Stormberg) 、コレンゾー (Colenso) において続けざまに壊滅的な打撃を被った。 12月10日のストームベルクの戦い(en)において、英国軍の司令官、Sir William Gatacre将軍は、オレンジ川の50マイル南での鉄道ジャンクションを取り戻そうとしたが、オレンジ自由国軍の抵抗にあい、死傷者135人、捕虜600人という大損害を被った。 英国軍を含めて、当時の世界の正規な軍隊では、歩兵が密集して横隊陣形を組んで攻撃前進するというのが普通のスタイルであった。それに対してボーア軍の主体は民兵部隊で特定の編制をもたず、連装式ライフル銃を装備した騎乗歩兵が主体であった。特定の陣形を組まずに分散して展開し、敵に近づくと馬を降りて、ブッシュや地形の起伏を巧みに利用して身を隠し命中精度の高い射撃を行ったのである。 12月11日のマゲルスフォンテーンの戦い(en)では、ポール・サンフォード・メシュエン男爵(メシュエン3世)が指揮する14,000人の英国軍が、キンバリーを攻略するために用意された。ボーア軍指揮官であったデ・ラ・レイ (Koos de la Rey) とクロンジェ (Piet Cronje) は、英国軍の型にはまった作戦行動を逆手に取り、軍事教則にとらわれない場所に塹壕を掘り、射手(ライフルマン)を配置する作戦を実行した。これが図に当たり、キンバリー、そしてマフェキングを救出するはずだった英国軍は死者120人、負傷者690人を出す壊滅的な打撃を受けた。 しかし、暗黒の一週間の最悪の日は、12月15日のコレンゾーの戦い(en)である。 レディスミス救出のためにツゲラ (Tugela) 川を渡ろうとしたレドバース・ブラー (Redvers Buller) の指揮する21,000人の英国軍が、ルイス・ボータ(ボーサ)指揮する8,000人のトランスヴァール共和国軍に待ち伏せされた。砲撃と正確なライフル射撃の組合せにより、ボーア軍は川を渡ろうとした全ての英国軍を撃退した。ボーア軍の犠牲者40人に対して英国軍は1,127人の犠牲者を出し、更に悪いことには退却の際に放置した大砲10門を鹵獲される体たらくであった。
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