第二神戸高等女学校時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 08:54 UTC 版)
「兵庫県立夢野台高等学校」の記事における「第二神戸高等女学校時代」の解説
略称は県二(けんに)、または県二高女(けんにこうじょ)、第二高女(だいにこうじょ)。 修業期間は5年(現在の中学3年間+高校2年まで)。但し1943年(昭和18年)4月1日からは4年(現在の中学3年間+高校1年まで)に変更される。 第1回生(K1)は1925年(大正14年)4月入学~1930年(昭和5年)3月卒業。最後の県二生となる第20回生(K20)は1945年(昭和20年)4月入学~1949年(昭和24年)3月卒業。 卒業生の「第○回生」の数え方は、修業期間変更後の一時期のみ、現在とは異なる数え方であった。 一般的な通学ルートは国鉄(現・JR)兵庫駅から、兵庫電気軌道(現・山陽電気鉄道)長田駅から、神戸有馬電気鉄道(現・神戸電鉄)長田駅から、神戸市電・湊川公園停留所(廃線)からの徒歩であった。 女学校にしては珍しくランドセルが採用されていた。 運動会の最後は最上級生が踊る「ファウスト」と決まっていた。 校歌は昭和2年~5年、昭和5年~10年、昭和10年~の3種類あった。 1938年(昭和13年)7月3日に集中豪雨のために阪神大水害が起こったが、当校は奇跡的に助かった。 1941年(昭和16年)頃、教頭の提唱で正門前通りの両側に並木としてクスノキ40本あまりを植樹。そのため旧校舎時代は見事な景観であった。現校舎建設工事に伴いほとんど伐採されたが、1本だけがかろうじて現存している。 兵庫県全県から入学が可能だったが、1942年(昭和17年)から学区制が導入され、新生田川を境界線として当校は神戸西部学区に分けられた。 1943年(昭和18年)に「兵庫県女子挺身隊結成式」が行われ、当校からも代表生徒が参加させられた。 1945年(昭和20年)の入試では答案用紙が神戸大空襲で焼失したため、合格発表は雨天体操場の黒板にただ1行「全員合格」と書かれただけであった。 明石大空襲で壊滅した川崎航空明石工場が1945年4月の始業式直後に当校舎内に移設(~1945年9月)。この工場は「報国第一〇一工場」と称された。 1945年の大空襲で県一校舎が一部焼失。免れた部分も兵庫県庁が全面的に使用する事になり、県一が当校へ移転。移転の作業は瓦礫の中、徒歩で行われた。翌年県一の新校舎が決まり、併設が解消された。 1946年(昭和21年)4月に入学した生徒は第21回生(K21)として入学したが、高等女学校の廃止により第21回生として卒業することはなかった。 1947年(昭和22年)4月に併設中学校が併設。これは高等女学校が廃止される事になったため、当時高等女学校在学中だった生徒を新制の中学校と同じように卒業させるために設けたものであった。そのため、「併設中学校1年生」は存在しなかった。 戦前から戦後にかけての修業期間一覧表 S13.4 S14.4 S15.4 S16.4 S17.4 S18.45→4年に S19.4 S20.4 S21.4 S22.4 S23.4 K141年 2年 3年 4年 5年 K15 1年 2年 3年 4年 5年 K16(期間5年) 1年 2年 3年 4年 5年 K16(期間4年) ↑と同じ ↑と同じ ↑と同じ 4年 K17(旧K16) 1年 2年 3年 4年 K18(旧K17) 1年 2年 3年 4年 K18(旧K18) 1年 2年 3年 4年 K19 1年 2年 3年 4年 K20 1年 2年 3年 4年 併1 ↑と同じ ↑と同じ 3年 併2 K21の1年 2年 3年
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