第二次ヒムヤル王国
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4世紀に入り、ヒムヤルはアラビア半島中心部への進出を試みるようになる。300年頃に王の称号にハドラマウト、ヤマナート(南アラビアの海岸地帯)が追加されていた。しかし、4世紀初頭にエチオピアのアクスム王国の干渉と攻撃を受け、4世紀半ばに建立されたアクスムの碑文に確認される王の称号の中にヒムヤルも含まれていた。第二次ヒムヤル王国の国王であるシャンマル・ヤルアシュ、アブー・カリバ・アスアドは、後世のアラブの伝承に征服者として名前を残した。アブー・カリバの死後に彼の子であるハサンが即位するが、ハサンは弟のアムルによって殺害される。アムルの死後にヒムヤル族は分裂するが、ハサンのもう一人の弟であるズー・ヌワース(ズルア・ブン・ティバーン・アスワド)によって反乱者は殺害され、王国は再統一された。 イエメンにおけるユダヤ教の勢力は6世紀初頭に確固たる物となっていたが、ユダヤ教の隆盛はキリスト教国であるアクスムとの対立の一因となる。交易活動の中でヒムヤルとアクスムの間に武力衝突が起こり、ヒムヤルの攻撃によって死者が出たアクスム側は517年に南アラビアに派兵し、この年以降両国の貿易摩擦が進展する。 523年10月、ナジュラーンで、ズー・ヌワースによるキリスト教徒の虐殺が起きる(ナジュラーンの迫害)。虐殺が起きた背景について、イエメン土着のキリスト教徒が抱いていた、エチオピアのキリスト教徒によるイエメン支配を憎悪する感情があったと考えられているナジュラーンの迫害は各地に波及し、それぞれの地域でキリスト教徒への攻撃が起きる。ナジュラーンの住民の訴えを受けたアクスム王カレブ(エッラ・アスベハ、エラスボアス)は、キリスト教徒迫害を憂慮した東ローマ皇帝ユスティヌス1世から輸送艦隊の貸与を受けた。アラビア方面への影響力の強化、イランのサーサーン朝への牽制と商業関係の強化を図る東ローマ帝国は海路から軍隊を送るとともに、アレクサンドリア総主教ティモセオス3世に援軍を要請し、525年春にアクスムのヒムヤル遠征が開始された。アクスムに敗れたヒムヤル王国は滅亡し、イブン・イスハーク、タバリーらイスラーム世界の歴史家はズー・ヌワースが海中に飛び込んで自害したと述べている。 ヒムヤル攻撃を指揮したアクスム軍ヒムヤル駐留司令官アブラハはイエメンで独立し、ヒムヤル王位を簒奪した。アブラハは中央アラビアのマアッド(リヤド周辺)のフジュル朝やヒジャーズ地方に遠征し服属させた。アラブ世界の伝承では、ヒムヤル王族の末裔であるサイフ・イブン・ディ・ヤザレが強国の援助を得るために東ローマ帝国、サーサーン朝を訪れ、最後にサイフがサーサーン朝からイエメンの共同統治者に任じられたことが述べられている。575年にサーサーン朝の軍隊が海路を経て南アラビアを征服し、サーサーン朝は地中海とインド洋を結ぶ陸海の交易路をすべて掌握する。サーサーン朝によってイエメンにサトラップ(総督)が置かれ、サトラップはサナアに駐屯した。628年にサトラップのバーダーンは預言者ムハンマドの呼びかけに応じてイスラム教に改宗し、ヒムヤル族の多くもイスラム教を受け入れた。
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