第二次ヒムヤル王国とは? わかりやすく解説

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第二次ヒムヤル王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/10 04:39 UTC 版)

ヒムヤル王国」の記事における「第二次ヒムヤル王国」の解説

4世紀入り、ヒムヤルはアラビア半島中心部への進出試みるようになる300年頃に王の称号ハドラマウト、ヤマナート(南アラビア海岸地帯)が追加されていた。しかし、4世紀初頭エチオピアアクスム王国干渉攻撃を受け、4世紀半ば建立されアクスム碑文確認される王の称号中にヒムヤルも含まれていた。第二次ヒムヤル王国の国王であるシャンマル・ヤルアシュ、アブー・カリバ・アスアドは、後世アラブの伝承征服者として名前を残した。アブー・カリバの死後彼の子であるハサン即位するが、ハサンは弟のアムルによって殺害されるアムル死後ヒムヤル族分裂するが、ハサンもう一人の弟であるズー・ヌワース(ズルア・ブン・ティバーン・アスワド)によって反乱者は殺害され王国再統一された。 イエメンにおけるユダヤ教勢力6世紀初頭確固たるとなっていたが、ユダヤ教隆盛キリスト教国であるアクスムとの対立一因となる。交易活動の中でヒムヤルとアクスムの間に武力衝突起こり、ヒムヤルの攻撃によって死者出たアクスム側は517年南アラビア派兵しこの年以降両国貿易摩擦進展する523年10月ナジュラーンで、ズー・ヌワースによるキリスト教徒虐殺起きる(ナジュラーン迫害)。虐殺起きた背景についてイエメン土着のキリスト教徒抱いていた、エチオピアキリスト教徒によるイエメン支配憎悪する感情があったと考えられているナジュラーン迫害各地波及しそれぞれの地域キリスト教徒への攻撃起きる。ナジュラーン住民訴え受けたアクスムカレブ(エッラ・アスベハ、エラスボアス)は、キリスト教徒迫害憂慮し東ローマ皇帝ユスティヌス1世から輸送艦隊の貸与受けたアラビア方面への影響力強化イランサーサーン朝への牽制商業関係強化を図る東ローマ帝国海路から軍隊を送るとともにアレクサンドリア総主教ティモセオス3世援軍要請し525年春にアクスムのヒムヤル遠征開始された。アクスム敗れたヒムヤル王国滅亡し、イブン・イスハーク、タバリーイスラーム世界歴史家はズー・ヌワースが海中飛び込んで自害した述べている。 ヒムヤル攻撃指揮したアクスム軍ヒムヤル駐留司令官アブラハイエメン独立し、ヒムヤル王位簒奪した。アブラハ中央アラビアのマアッド(リヤド周辺)のフジュル朝やヒジャーズ地方遠征し服属させた。アラブ世界伝承では、ヒムヤル王族末裔であるサイフ・イブン・ディ・ヤザレが強国援助を得るために東ローマ帝国サーサーン朝訪れ最後にサイフサーサーン朝からイエメン共同統治者任じられたことが述べられている。575年サーサーン朝軍隊海路経て南アラビア征服しサーサーン朝地中海インド洋を結ぶ陸海交易路をすべて掌握するサーサーン朝によってイエメンサトラップ総督)が置かれサトラップサナア駐屯した。628年サトラップのバーダーンは預言者ムハンマド呼びかけに応じてイスラム教改宗しヒムヤル族多くイスラム教受け入れた

※この「第二次ヒムヤル王国」の解説は、「ヒムヤル王国」の解説の一部です。
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