第二二潜水隊
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1944年(昭和19年)1月31日、栢原は第二二潜水隊司令に補され、再び海上に赴く。この部隊は第六艦隊(高木武雄司令長官)に直属し、新海大型(海大七型)潜水艦で構成されていた。この艦種は1943年から翌年にかけて竣工した新鋭艦で、急速潜航秒時短縮を実現していた。しかし、栢原の前任司令であった前島寿英(海兵48期、海大30期)は「伊181」に同乗し戦死していた。栢原着任時の第二二潜水隊所属潜水艦は「伊177」、「伊180」、「伊184」、「伊185」である。2月17日、連合国はトラック島空襲を行い、連合艦隊の一大根拠地であったトラックは壊滅的打撃を受けた。日本にあった栢原麾下の3隻は北東方面部隊に編入され、「伊177」(折田善次、渡辺正樹潜水艦長)、「伊180」(藤田秀範潜水艦長)、「伊184」(力久松次潜水艦長)はアリューシャンでの作戦行動に移るが、「伊180」は4月27日に撃沈された。「伊185」(関戸好密潜水艦長)は南方にあり、栢原着任後にグリーン諸島の防衛にあたる陸戦隊(指揮官和田久馬大尉)の輸送、イボギ(ニューブリテン島)への輸送に成功し、ブカでは失敗している。「伊185」は電池室火災やジャイロの故障に見舞われ、修理のため日本へ帰還した。栢原は3月15日以降第六艦隊司令部附を兼任し、第二二潜水隊には「伊183」(佐伯卓夫潜水艦長)が増強されるが、同艦は南方への進出のため豊後水道を出撃したその夜に米潜水艦「ポーギー」によって撃沈された。 この頃日本は絶対国防圏を策定し、中部太平洋の要地であるサイパン島に中部太平洋方面艦隊(南雲忠一司令長官)、陸軍第三十一軍(小畑英良軍司令官)を配備してその防備を固め、海上決戦として「あ号作戦」を準備し、小澤治三郎率いる第三艦隊、角田覚治率いる第一航空艦隊らを決戦兵力として整備していた。6月11日、米機動部隊はマリアナ諸島の空襲を、15日にはサイパン島への上陸を開始した。同日、大本営は「あ号作戦」を発動する。この時、栢原麾下で健在な「伊184」は南方で輸送に従事していた。「伊184」にはグアム付近への進出が命じられたが、6月19日に護衛空母「スワニー」の艦載機によって撃沈された。栢原は「伊185」(荒井淳潜水艦長)に乗艦し、ウェワクへの物資輸送のため6月10日に呉を出港したばかりであった。「伊185」は独断でサイパン島に向かったが、15日22時30分に発した電信を最後に消息を絶つ。「伊185」は6月22日に、米駆逐艦「ニューコム」、掃海駆逐艦「チャンドラー(英語版)」によるソナー探知、爆雷攻撃によってサイパン島北西で撃沈されたのであった。第二二潜水隊で最後まで健在であった「伊177」は「あ号作戦」発動時は北方にあった。第二二潜水隊は8月10日をもって解隊となり、第三四潜水隊に編入された同艦も米駆逐艦「サミュエル・S・マイルス(英語版)」のヘッジホッグによって10月3日に撃沈された。
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