第三高等学校校長
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1887年(明治20年)4月、中島永元が文部省に転出し、折田が第三高等中学校の校長に復帰することになった。第三高等中学校は京都への移転が決定されており、折田はその準備を進めるとともに、本科や医学部の設置を行っている。1889年(明治22年)8月、第三高等中学校の京都・吉田(現・京都大学本部構内)への移転が完了した。なお、この間の1889年(明治22年)2月11日、森有礼文相が暗殺されている。旧知であり公私ともに親密な関係にあった森の横死は、折田のその後に影響を及ぼしたと考えられる。 1894年(明治27年)6月23日、第三高等中学校は高等学校令による高等学校に改組、第三高等学校となり、折田はその初代校長となった。第三高等学校には予科が置かれず、法学部・工学部・医学部が置かれた。これは将来、三高の大学への昇格を視野に入れたものである。しかし、これに伴って従来の高等中学校の本科・予科はともに解散されることになった。所属していた学生の大部分は各地への離散を余儀なくされ、7月7日、最後の卒業証書授与式後「分袂式」を開いて京都を去った。この出来事は折田にも痛恨の出来事として受け止められたようであり、折田は当局者に対して「人の子供を預かって斯んな残酷なことは出来ない、二度と解散などと云ふ事を遣られるならきっぱりお暇を貰ふ」と言ったと後年回想している。 1897年(明治30年)には京都帝国大学が設立されることとなった。第三高等学校長の折田は、牧野伸顕(文部次官)、木下広次(文部省専門学務局長、元第一高等学校校長)、永井久一郎(文部省会計課長)とともに創立委員に任命され、審議にあたっている。文部省内の当初案では三高を昇格して帝国大学にする案もあり、関西への大学新設を働きかけてきた経緯から、折田を京都帝大総長の有力候補とする観測もあったが、結局初代総長には木下広次が就任した。第三高等学校は施設を京都帝国大学に譲渡し、吉田神社参道(東一条通)を隔てて南側の二本松地区(現・京都大学吉田南構内)に移転した。第三高等学校は大学予備教育機関として転換され、予科が復活設置される一方で専門学部は廃止された。 1910年(明治43年)11月、校長を辞任。突然の辞任の理由について折田は語っておらず、はっきりしない。折田は前年還暦を迎えており、おそらく老齢と健康問題によるものと推測されている。折田彦市前校長退任式と酒井佐保新校長就任式は11月27日に武道場で行われた。折田は「三高三十年の感想は、わずかな時間に尽くすべくもない。私の生活は第三高等学校であった」と退任の挨拶を述べ、生徒の中には涕泣するものもあったという。
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