第三高等学校校長とは? わかりやすく解説

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第三高等学校校長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 07:19 UTC 版)

折田彦市」の記事における「第三高等学校校長」の解説

1887年明治20年4月中島永元文部省転出し折田第三高等中学校校長復帰することになった第三高等中学校京都への移転決定されており、折田はその準備進めとともに本科医学部の設置行っている。1889年明治22年8月第三高等中学校京都吉田(現・京都大学本部構内)への移転完了した。なお、この間1889年明治22年2月11日森有礼文相暗殺されている。旧知であり公私ともに親密な関係にあった横死は、折田その後影響及ぼした考えられる1894年明治27年6月23日第三高等中学校高等学校令による高等学校改組第三高等学校となり、折田はその初代校長となった第三高等学校には予科置かれず、法学部工学部医学部置かれた。これは将来三高大学への昇格視野入れたのである。しかし、これに伴って従来高等中学校本科予科はともに解散されることになった所属していた学生大部分各地への離散余儀なくされ、7月7日最後卒業証書授与式後「分袂式」を開いて京都去った。この出来事折田にも痛恨出来事として受け止められたようであり、折田当局に対して人の子供を預かって斯んな残酷なことは出来ない二度と解散などと云ふ事を遣られるならきっぱりお暇を貰ふ」と言った後年回想している。 1897年明治30年)には京都帝国大学設立されることとなった第三高等学校長の折田は、牧野伸顕文部次官)、木下広次文部省専門学務局長、元第一高等学校校長)、永井久一郎文部省会計課長とともに創立委員任命され審議にあたっている。文部省内の当初案では三高昇格して帝国大学にする案もあり、関西への大学新設働きかけてきた経緯から、折田京都帝大総長の有力候補とする観測もあったが、結局初代総長には木下広次就任した第三高等学校施設京都帝国大学譲渡し吉田神社参道東一条通)を隔てて南側二本松地区(現・京都大学吉田南構内)に移転した第三高等学校大学予備教育機関として転換され予科復活設置される一方で専門学部廃止された。 1910年明治43年11月校長辞任突然の辞任理由について折田語っておらず、はっきりしない折田前年還暦迎えており、おそらく老齢と健康問題よるもの推測されている。折田彦市校長退任式と酒井佐保新校就任式11月27日武道場行われた折田は「三高三十年の感想は、わずかな時間尽くべくもない。私の生活は第三高等学校であった」と退任挨拶述べ生徒中には涕泣するものもあったという。

※この「第三高等学校校長」の解説は、「折田彦市」の解説の一部です。
「第三高等学校校長」を含む「折田彦市」の記事については、「折田彦市」の概要を参照ください。

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