板垣会館建設に盡力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 22:32 UTC 版)
昭和10年(1935年)、頭山満は、板垣退助の生家である高知市・高野寺に板垣会館を建設せんとする谷信讃らの活動に賛同し、近衛文麿、尾崎行雄、望月圭介、岡崎邦輔、安達謙蔵、小久保喜七、国沢新兵衛、菅原傳、日野国明、泊武治らと共に「板垣会館建設準備会」の顧問に就任。頭山は東京角力協会に協力を要請。さらにこの活動を円滑に進めるため、翌年(1936年)、望月圭介、胎中楠右衛門らと「板垣会館寄附相撲後援会」を組織し、各界の名士113名を集めた。この結果、東京角力協会は会館建設に協力し、春場所終了後にあたる昭和11年(1936年)6月5日に「板垣会館建設寄附興行」を行い興行収入を寄附した。また、京都では第三高等学校校長・森氏が協力を表明、大阪では当時、大阪朝日新聞社に勤務していた久琢磨が協力を表明。さらに頭山の意を受けて天龍関が「板垣伯報恩相撲」に賛同の意向を表明した為、琢磨は大阪朝日新聞社の一室に「板垣会館寄附相撲後援会」の事務局を設け、東京に次いで大阪でも「板垣会館建設寄附興行」を行えるよう協力を請う。その結果、昭和12年(1937年)1月17日、梅田阪急百貨店横に特設された土俵で「板垣伯報恩相撲」が興行された。同年4月6日に挙行された板垣会館の落成式に頭山は来賓として臨席。「板垣會館」の扁額を揮毫し、刀剣を奉納した。
※この「板垣会館建設に盡力」の解説は、「頭山満」の解説の一部です。
「板垣会館建設に盡力」を含む「頭山満」の記事については、「頭山満」の概要を参照ください。
- 板垣会館建設に盡力のページへのリンク