板垣会館建設に協力
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昭和11年(1936年)に入ると、天竜は大日本生産党の大御所である頭山満に出羽海への根回しを頼み、国粋会の親分にも詫びを入れて若い衆の協会帰参を図った。この頃、頭山満は、望月圭介、胎中楠右衛門らと、板垣退助の生家である高知市・高野寺に板垣会館を建設せんとする谷信讃らの活動に賛同し「板垣会館寄附相撲後援会」を組織。各界の名士113名を集めてこれを応援していた。これによって、京都では第三高等学校校長・森氏が協力を表明、大阪では当時、大阪朝日新聞社に勤務していた久琢磨が協力を表明。頭山の意を受け天竜は「板垣伯報恩相撲」に賛同する意向を表明した為、琢磨は大阪朝日新聞社の一室に「板垣会館寄附相撲後援会」の事務局を設け、大阪で「板垣会館建設寄附興行」を行えるよう尽力。その結果、昭和12年(1937年)1月17日、梅田阪急百貨店横に特設された土俵で「板垣伯報恩相撲」が興行された。
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板垣会館建設に協力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 23:29 UTC 版)
昭和11年(1936年)、胎中楠右衛門、頭山満、望月圭介らは、板垣退助の生家である高知市・高野寺に板垣会館を建設せんとする谷信讃らの活動に賛同し「板垣会館寄附相撲後援会」を組織。各界の名士113名を集めてこれを応援した。これによって、京都では第三高等学校校長・森氏が協力を表明、大阪では当時、大阪朝日新聞社に勤務していた久琢磨が協力を表明。さらに久琢磨を通して天龍関が「板垣伯報恩相撲」の意向を表明した為、琢磨は大阪朝日新聞社の一室に「板垣会館寄附相撲後援会」の事務局を設け、東京に次いで大阪でも「板垣会館建設寄附興行」を行えるよう協力を請う。その結果、昭和12年(1937年)1月17日、梅田阪急百貨店横に特設された土俵で「板垣伯報恩相撲」が興行された。
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