第三高等学校理科へ
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1919年(大正8年)3月、基次郎は成績中位(席次115番中51番)で大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)を卒業。兄も住友電線製造所(現・住友電気工業)に4月から入社が決まった。基次郎も兄と同じ電気エンジニアをめざし、第一志望として兄が卒業した大阪高等工業学校(現・大阪大学工学部)電気科を受験するが、不合格となった。 この頃、父の友人・池田鹿三郎の弟・竹三郎の娘(大阪信愛高等女学校4年生の美少女・池田艶)への恋が募り(初めて会ったのは艶が小学校5年、基次郎が中学2年の時)、彼女への想いを友人らに書き送ったり、兄の同級・橋田慶蔵に打ち明けたりした。この頃、手紙の中に夏目漱石の失恋の英詩を写し書きしたりした。 場所も遠く、学費のかかる第三高等学校(現・京都大学総合人間学部)への受験を母に懇願し承諾を得た基次郎は、猛勉強に励むと同時にますます漱石に傾倒し、兄が買ってきた再版の漱石全集を手にとり『明暗』を夢中で読んでいた。5月に出した友人の手紙には、漱石の『三四郎』の影響から〈Strey sheep〉と署名し、6月には〈梶井漱石〉と署名した。 7月、基次郎は南禅寺の僧庵に泊って試験に挑み、第三高等学校の理科甲類(英語必修)に無事合格。中学同級の宇賀康、中出丑三、1年上の矢野繁も一緒に合格し、畠田敏夫は神戸高等商業学校(現・神戸大学経済学部)に進んだ。同月末から8月、兄と富士山登山をし、底倉温泉の「つたや」に1泊した。9月、『大阪毎日新聞』夕刊に連載中の菊池寛の「友と友の間」を愛読。通学のため京都府上京区二条川東大文字町160番(現・左京区二条川端東入ル上ル)の中村金七(祖母・スヱの親類で遠縁にあたる人物)方に下宿した。入学式の後、丸太町通の古書店を歩いた。
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