私は何ものをも恐れない、ただ大衆のみを恐れる
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「三木武夫」の記事における「私は何ものをも恐れない、ただ大衆のみを恐れる」の解説
1969年(昭和44年)12月27日に投票が行われた第32回衆議院議員総選挙で、自民党は保守系無所属を加えると300議席を獲得する勝利を得た。総選挙勝利の余勢を駆って、自民党内は佐藤四選への流れが出来ていった。既に6年間政権を維持してきた佐藤に対し、岸は佐藤、岸ともに後継者と目する福田に政権を譲るよう勧めたが、佐藤は兄である岸の忠告に耳を貸そうとはしなかった。福田のライバルである田中は次の2年間に力を蓄えて政権獲得を目指すため、積極的に佐藤四選を支持した。1970年(昭和45年)秋になると中間派が相次いで佐藤支持を表明し、前回の総裁選に立候補した前尾繁三郎も佐藤支持を明らかにし、佐藤四選は自民党内で既定路線となっていった。 佐藤四選が既定路線となる中で、三木は苦しい立場に立たされた。三木派内でも総裁選に出馬して惨敗を喫したら三木の政治生命の危機となる点や、そもそも党内の大勢が佐藤四選へと流れていく中で三木が総裁選に立てば、三木派が冷遇されることになると危惧する声が上がった。三木は派内にあった消極論を一蹴し、9月24日、「私は何ものをも恐れない、ただ大衆のみを恐れる」と、総裁選に立候補を表明した。 三木は自らを支持する国会議員に対し、郷里に戻って政党政治の原点に立ち返って所信を訴える、帰郷運動を提唱した。三木自身も故郷の徳島から始まり、東京、大阪、名古屋、札幌で演説会を開き、国民に向かって自らの所信を訴えた。三木は全国各地で「今日は敗れても明日の勝利を信じる」と訴え、二年前の佐藤三選時には党内で三選の是非について論議がなされたのに、四選時にはいったん党内で流れが出来てしまったら、長いものに巻かれろといった感じで誰も文句を言おうとしないことについて、自身の翼賛選挙での体験を踏まえつつ、厳しく批判した。そして自らの役割を党内の若手への繋ぎ役とし、早く若手に自民党を託していかねば、組織が硬直化していくばかりであると総裁選立候補の意義を説明した。 三木以外、現職の佐藤に対抗する立候補者が現れなかった総裁選において、三木は国民に直接所信を訴えかけ、マスコミを積極的に活用することによって、圧倒的な力を誇る佐藤に対抗しようと試みた。三木の総裁選立候補と帰郷運動をマスコミは好意的に報道しており、硬直化した自民党の中にあって、クリーンな三木が立ち向かうイメージを国民、マスコミに植え付けることに成功した。この国民に直接話しかけ、マスコミを積極的に利用するスタイルはその後のロッキード事件の際などにも行われ、クリーン三木というイメージの定着に寄与した。 10月29日の総裁選で、三木は予想を上回る111票を獲得した。敗れたとはいえ三木は今回も総裁候補の一角としての地位を保った。一方総裁選出馬を見送った前尾は、佐藤陣営から出馬見送りの代わりに入閣を匂わされていたが、佐藤四選後の内閣改造は見送られ入閣はなされなかった。前尾派内では佐藤に利用されるだけ利用されたあげくに捨てられたのに黙っていると、前尾に対する厳しい批判が噴出し、派内若手を中心に大平正芳に派閥を譲るべきという意見が強まった。結局鈴木善幸の仲裁により、前尾から大平に派閥の領袖が交代することになった。
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