私は全世界である
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 23:35 UTC 版)
「なぜ私は私なのか」の記事における「私は全世界である」の解説
詳細は「梵我一如」を参照 この問題に対してオーストリア出身の理論物理学者エルヴィン・シュレディンガーは梵我一如の考えを支持した。「通常の理性では信じがたいことかもしれないが」と前置きした上で、次のように述べた。 通常の理性では信じがたいことかもしれないが、君──そして意識をもつ他のすべての存在──は、万有のなかの万有だということなのである。君が日々営んでいる君のその生命は、世界の現象のたんなる一部分ではなく、ある確かな意味合いをもって、現象全体をなすものだと言うこともできる。…周知のように[古代インドの]婆羅門たちはこれを、タト・トワム・アスィ(Tat tvam asi=其は汝なり)という、神聖にして神秘的であり、しかも単純かつ明解な、かの金言として表現した。──それはまた、「われは東方にあり、西方にあり、地上にあり、天上にあり、われは全世界なり」という言葉としても表現された。 — エルヴィン・シュレディンガー(1925年執筆/1961年出版)「道を求めて」 中村量空ら [訳] シュレディンガーがこの問題に関して述べている主張は大きく二つに絞られるが、一つは時間において現在しかないということ、もう一つはすべての意識がひとつであるということ、である。シュレディンガーはこの点について、おそらく読者(として想定される西洋人たち)はこうした主張を何かの暗喩としてしか理解しないだろうが、私(シュレディンガー)は文字通りの意味でこのことを言っている、ということを繰り返し述べている。 この時間において現在しかないという点について、これは色々な哲学者がしばしば取ってきた立場であるが、シュレディンガーは次のように表現している。 君は大地のように、否それにも増していく幾千倍も金剛不壊である。確かに明日大地が君を呑み込むとしても、あらたな奮闘と苦悩に向けて大地は再び君を産み出すことであろう。それはいつの日にかということなのではなく、いま、今日、日々に大地は君を産み出すのである。それも一度のみならず幾千回となく、まさに日々君を呑み込むように、大地は君を産み出す。なぜなら、永遠にそして常にただこのいまだけがあるのであり、すべては同じいまなのであって、現在とは終わりのない唯一のいまなのであるのだから。この永遠のいまという(人々が自らの行いのなかでめったに自覚することのない)真理の感得こそが、倫理的に価値あるすべての行為を基礎づけるものなのである。 — エルヴィン・シュレディンガー(1925年執筆/1961年出版)「道を求めて」 中村量空ら [訳] 次にすべての意識がひとつであるという点について、こうした主張をするものは哲学者にもあまり見られないが、シュレディンガーはこうした事が言える背景として主に次の二つのことを強調している。一つは、意識については普通のメレオロジカルな関係、つまり一般的な部分・全体関係というのが成り立たないのだということ。そして次に、意識については普通の数量的関係、つまり例えば一人の悲しみより千人の悲しみの方がより悲しい、といったことは成り立たないのだということ、である。
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