神智学協会との出会い
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「アナガーリカ・ダルマパーラ」の記事における「神智学協会との出会い」の解説
1875年、ブラヴァツキー夫人とヘンリー・オルコットはニューヨークで神智学協会を設立した。1880年に初めてスリランカを訪れた2人は5月25日に現地の高僧から三帰五戒を受け、仏教信者となったことを公に示した。その後もオルコットは定期的にスリランカを訪れて300以上の仏教系学校を設立し、仏教教育の振興を図った。 ダルマパーラが彼らと出会ったのは、彼らが初めてスリランカを訪れた1880年であった。ブラヴァツキー夫人の熱心な支持者であった彼のおじの紹介で、ダルマパーラはコロンボで行われた第1回目の講演に参加し、彼らと対面した。オルコットがスリランカを再訪した1884年、ダルマパーラは彼に神智学協会への入会希望を伝え、年齢は満たなかったが特別に入会を許された。さらに同年12月には家族の反対を押し切って彼らと共にマドラスを訪れた。 その翌年の1885年には父親に仏教と神智学協会のために独身生活を送ることの許しをこい、1886年にはオルコットと一緒にスリランカをまわった。この旅行中、都会育ちの彼はスリランカの農村部が抱える問題と直面し、衝撃を受けた。 同時期に彼は「アナガーリカ・ダルマパーラ」に改名した。「ダルマの守護者」を意味する「ダルマパーラ」に対し、「アナガーリカ」はパーリ語で「家を持たぬ者」を意味し、比丘と在家の間の地位を指す。彼は生涯に渡って八斎戒を実践した。これは通常、在家の信徒が特定の日だけ行う戒律であり、生涯に渡って実践する人は非常に稀であった。つまり彼は近代における最初のアナガーリカ、すなわち独身のフルタイム仏教伝道者であった。また彼は伝統的な袈裟とは異なる黄色の袈裟を身に纏い、剃髪をすることもなかった。それは、全ての戒律に従うとかえって世界中で自分の働きをする上で妨げとなると感じたからである。その地位は人気とはならなかったが、彼は「仏教近代化における在家運動のモデル」となり、スリランカの「菩薩」と考えられた。 また、エドウィン・アーノルドによる1885年のブッダガヤ巡礼に触発されてダルマパーラ自身もブッダガヤを訪れた。アーノルドはブッダガヤを仏教徒の手に取り戻すための主張も行った。 その後、ポール・ケイラスの誘いによって1896年と1902年から1904年までの間で米国を訪れ、広く仏教の教えを伝えた。 しかし、神智学協会が普遍的宗教を目指す過程でダルマパーラはオルコットと決別した。ダルマパーラは仏教が非仏教的な真理のモデルと同一視されるべきではないと考えていたからである。 1933年、彼はサールナートで出家し、その年の12月に68歳で亡くなった。
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