祖父・三八郎と川端康成
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「十六歳の日記」の記事における「祖父・三八郎と川端康成」の解説
川端康成は自身の生涯の節目節目に、繰り返し祖父・三八郎について語っており、随筆『故園』(未完)では、〈祖父は私が共に生きたと思へる、ただ一人の肉親であつた〉と書いている。また処女作の『ちよ』では、〈十六の年に、祖父は、死んでもお前の身を護るとの言葉を残して死にました〉と書いている。 川端家は代々、大阪府三島郡豊川村の庄屋で大地主であったが、祖父・三八郎は財産をほぼ無くし、一時村を出ていた。しかし息子の嫁・ゲン(康成の母)の死をきっかけに村に戻り、昔の屋敷より小ぶりな家を建てて、孫の康成を養育した。康成の姉・芳子が預けられた秋岡家(ゲンの妹の婚家)の主人・義一(当時衆議院議員)は、その時にゲンの遺した金3000円も預かり、康成と祖父母は、その仕送りのお金で生活をしていた。 作中にもあるように、三八郎は若い頃に八卦や家相学を研究し、よく当たるという評判で遠方からも見てもらいに来る人もいたという。村には先祖が建てた尼寺があり(本尊は黄檗宗で虚空蔵菩薩)、山林田畑や寺は川端名義で、尼さん達も川端の籍に入っていたが、村から一里離れた北の山寺から名高い聖僧が寺に移ることになり、それを有難がった三八郎は寺の財産や名義を手離した。寺は、豊川という金持ちにより立派に増改装されて名が変った。豊川は川端家の座敷にも新しい畳を入れてくれたという。三八郎は易学の弟子・自楽に口述筆記させた家相論の草稿「講宅安危論」を出版するために豊川に相談したこともあった。 三八郎は、茶の栽培や寒天製造などもやったが失敗し、家相を気にして建物を作り直したりするうちに、田や山を二束三文で売ってしまい、次々と財産が目減りしていったという。また易学以外には、文人画も描き、「万邦」と号していた。漢方薬の研究では「川端青龍堂」の名で官許の新漢方薬を調製・施薬などをし、その薬包紙も残っているが、広く販売するには至らなかった。なお、三八郎の借金には、孫・康成が田舎町の本屋・乕谷誠々堂で〈節季払ひ〉で買った文学書などの法外な本代もあったという。 祖父の葬儀の日、康成は多くの弔問を受けている最中に突然鼻血を出し、裸足のまま庭に飛び出し人目のない樫の木陰の庭石の上で仰向いて出血の止まるのを待った。この時のことを川端は以下のように述懐している。また、翌日の骨拾いの時にも再び鼻血が出て、あわてて帯で鼻を押さえて山へ駆けたという。前日と違い出血はなかなか止まらず、草の葉にぽとぽと落ちて黒い帯と手が血だらけとなった。 鼻血が出たのは生れて初めてと言つてよかつた。この鼻血が祖父の死から受けた私の心の痛みを私に教へた。……鼻血が私の気を挫いた。殆ど無意識で飛び出したのは自分の弱い姿を見せたくなかつたからだ。喪主の私が出棺近くにこの態では皆にすまないし一騒ぎになると思つたからだ。庭石の上は祖父の死後三日目に初めて持つた自身の静かな時間であつた。その時唯一人になつたといふ寄辺なさがぼんやり心に湧いた。 — 川端康成「葬式の名人」 『十六歳の日記』を、〈文字通りの私の処女作である〉とする川端は、〈私は父母の命日を覚えず、弔ふ気持もないけれども、この祖父の墓だけは私の胸にある。「十六歳の日記」は、その墓碑銘であらうか〉と語っている。
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