短い治世と亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 10:21 UTC 版)
「アムハ・セラシエ1世」の記事における「短い治世と亡命」の解説
皇太子がまだ国外にいる1974年9月12日、陸軍がクーデターを起こし、父帝ハイレ・セラシエを拘束し、皇帝から強制的に退位させた。ハイレ・セラシエは退位の署名もせず、皇帝としての地位の放棄もしなかった。クーデターの首謀者たちは臨時軍事行政評議会(英語版)(デルグ)を発足させた。デルグはスイスで治療中の皇太子アスファ・ウォッセンを、「皇帝」ではなく「国王」に任命すると宣言した。これは、アスファ・ウォッセンを立憲君主とすることを意図したものである。名目上は、1974年9月12日の父の強制退位から1975年3月12日の帝政廃止までの6か月間、アスファ・ウォッセンはエチオピア国王であった。しかし、皇太子はその称号を認めることはなく、父の退位も受け入れなかった。 クーデターが発生した際、アスファ・ウォッセンは治療のためにエチオピア国外にいたが、以降も生涯エチオピアに戻ることはなかった。アスファ・ウォッセンはロンドンのエチオピア大使館に、まもなくロンドンに移住すると通告した。大使館はデルグに、アスファ・ウォッセンがロンドンに到着した際、国家元首(国王)として迎えるべきか、皇太子として迎えるべきかの指示を求めた。デルグは、アスファ・ウォッセンはエチオピアの一市民として迎えられるべきであり、彼やその家族を皇族として扱うべきではないと回答した。デルグはその後まもなく1975年3月に帝政を廃止した。アスファ・ウォッセンはロンドンに定住した。国外脱出に成功した他の元皇族もロンドンに拠点を置いていた。革命当時エチオピアにいた他の皇族は投獄され、その中にはアスファ・ウォッセンの父である皇帝ハイレ・セラシエ、最初の妻との娘であるイジガエフ王女、妹のテナグネワーク王女、甥、姪、親戚、義理の親戚が含まれていた。1975年に父ハイレ・セラシエ、1977年1月に娘のイジガエフ王女が拘留中に死亡した。元皇族が最後に解放されたのは1989年のことである。 1974年11月に新政府が皇室の元幹部ら61人を虐殺した際、アスファ・ウォッセンはBBCの放送を通じて強い糾弾を発した。その声明は「皇太子アスファ・ウォッセン」の名で発表されたもので、自分を父の代わりに君主とするというデルグの宣言を認めないとするものだった。彼は亡命中も皇太子の称号を使い続けた。 1989年4月8日、アスファ・ウォッセンはロンドンの自宅で、亡命中のエチオピア人コミュニティのメンバーによって、「アムハ・セラシエ1世」の名で「エチオピア亡命皇帝」に推戴された。彼の妻も「皇后」の称号を使うようになった。皇位継承は、父が退位した1974年9月12日ではなく、ハイレ・セラシエが亡くなった1975年8月27日からとした。これは、デルグ政権が正当または合法的なものとして行った行為を拒否するものだった。 皇帝即位を宣言した1年後、亡命中の皇帝と皇后は、アメリカ合衆国バージニア州マクリーン(英語版)に移住した。ワシントンD.C.とその周辺にエチオピア移民(英語版)が多く住んでいるためである。 1991年、エチオピアでデルグ政権が崩壊し、エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)が政権を握ると、アムハ・セラシエは、エチオピアの君主制回復を推進するために「モア・アンベッサ君主運動」を立ち上げ、帰国の意向を表明した。しかし、ハイレ・セラシエの遺骨の発掘の後、ハイレ・セラシエのために計画されていた葬儀のあり方を巡って、皇室と新政権の間で紛争が勃発した。新政権はハイレ・セラシエの国葬を拒否したため、葬儀とアムハ・セラシエの帰国は無期限に延期された。
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