矢倉富康
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/16 12:18 UTC 版)
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やくら とみやす
矢倉 富康
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| 生誕 | 1951年11月23日(73歳) |
| 失踪 | 1988年失踪(36歳) 失踪から37年3か月と14日 |
| 国籍 | |
| 職業 | 漁師(元技術者) |
| 親 | (父)三夫 |
矢倉 富康(やくら とみやす、1951年〈昭和26年〉11月23日 - )は、鳥取県出身の特定失踪者 [1]。特定失踪者問題調査会では「拉致濃厚」(1000番台リスト)としている[2][3]。1988年(昭和63年)8月、島根県竹島沖で失踪した[1][4]。職業は漁師で、1984年(昭和59年)まで軍事転用可能な精密工作機械の製作にたずさわっていた優秀な技術者であった[1]。失踪当時は36歳であった[1][4]。
人物情報
矢倉富康は鳥取県米子市の出身で、1951年11月23日に生まれた[1]。失踪の3年前まで、精密工作機械「マシニングセンタ」のトップ企業だった日本精機(1984年倒産、本社:米子市)に勤め、マシニングセンタのプログラミングから、部品の製造・加工・組立、また、メンテナンスまでの一切をこなし、その技術や知識は「日本で3本の指に入る」と高く評価されるエンジニアであった[5][6]。マシニングセンタは100分の2ミリメートル(20マイクロメートル)の精度で金属を加工できる機械で、ミサイルなどの兵器製造には必須とされる[6]。日本精機が製造していた精密機械には、旧ココム(対共産圏輸出統制委員会)において輸出規制の対象となった製品もあったといわれており、付随する技術のノウハウも高度であったとみとめられる[5]。
矢倉は1980年前後、その高い能力を買われ、アジアや中近東、アメリカ合衆国やヨーロッパにも技術指導のため頻繁に出張していた[1][5][6]。韓国にも半年単位で主張したことがあった[6]。出張先にはオーストリアや当時社会主義国だったチェコスロバキア、ポーランドも含まれていた[5]。
勤務していた日本精機が倒産した1984年以降、矢倉は境港(鳥取県境港市・島根県松江市)を拠点とする漁師に転身した[6]。彼は独身で、身長はおよそ165ないし170センチメートルであった[1][4]。
失踪事件
矢倉は1988年(昭和63年)8月2日、漁船「一世丸」(4.9トン)に乗り、鳥取県美保関と隠岐諸島の中間海域で漁をする予定で境港を一人で出発し、以降行方不明となっている[1][4][6]。予定では、翌8月3日の朝6時に漁から戻ってくるはずだったという[1][6]。矢倉が戻って来ないことを知った漁業協同組合では、全員が操業を中止し、8月3日から5日にかけて延べ67隻で捜索にあたり、海上保安庁も出動して操業予定海域を捜索したが手がかりをつかめなった[1][6]。8月10日、海上保安庁の巡視船「おき」船が島根県竹島沖の南南東25キロメートル地点で矢倉の操業していた漁船が漂流しているのを発見したが、本人の姿はなかった[1][6]。「一世丸」左舷前方には他の船と衝突した痕跡があり、エンジンは焼き付いていた[6]。
当初、矢倉は海に転落したと考えられていた[6]。漁網は油圧式巻き取り機より投下前の状態で自動操舵になっていて、機関室のエンジンオイル循環ユニットのオイルパイプが落ち、オイル切れになってクランクメタルが焼き付いていた[6]。そうした状況から、船が衝突した際に矢倉が海中に転落し、操縦者が不在となったまま自動運転がつづきエンジンオイルの供給が切れて船が停止したと推測されたのである[6]。
1998年(平成10年)8月31日、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が弾道ミサイル、テポドン1号を発射し、一部は日本列島を超えて飛翔し、三陸沖に着弾した際には、日本精機のかつての矢倉の同僚から「矢倉のもつ高い技術力を狙って北朝鮮が拉致したのではないか」という話が出回った[6]。2003年2月8日付『福井新聞』によれば、矢倉の元同僚で後に米子市議会議員を務めた吉岡知己は、矢倉は北朝鮮でスクリューでも作らされているのではないかと仲間と話し合っていたという[6]。
拉致の可能性
矢倉の失踪は当初、船同士の衝突で海に転落したものと考えられていたが、特定失踪者問題調査会のSという人物によって拉致の可能性が高いことがしだいに明らかにされていった[7]。Sは、1977年に29歳で米子市の自宅近くで失踪した松本京子の調査も行い、日本政府が北朝鮮による拉致であると認定するまでこぎ着けた人物である[7]。
2003年1月27日、Sのもとに第八管区海上保安本部より、矢倉失踪事件に関する詳細な捜索状況を記した文書がファックス送信されてきた[7]。そこには、矢倉の乗った漁船に凹みや擦過痕が検出されたとともに青色塗料の付着も認められ、衝突相手船についての情報を集めているが何ら手がかりが得られていない旨の内容が記されていた[7]。Sが注目したのは、青色塗料であった[7]。日本の船ではこの塗料が使用されておらず、北朝鮮の工作船では似た色の塗料が使われているという[7]。また、矢倉の乗った「一世丸」は自動運転のままオイルパイプが破損してエンジンが焼き付いたというが、当初矢倉が漁を予定していた地点と船が発見された竹島沖とでは200キロメートルも離れており、不自然である[7]。
矢倉失踪の状況は、1963年(昭和38年)5月の寺越事件とたいへんよく似ている[8]。この事件は、石川県羽咋郡高浜町(現、志賀町)高浜港沖で、漁船「清丸」に乗船して漁に出ていた寺越昭二(当時36歳)、弟の寺越外雄(当時24歳)、甥の寺越武志(当時13歳)の3名が洋上で失踪した事件であり、ここでも船だけが残されていた[8]。そして漁船には他の船との衝突痕があり、日本では使用されていない塗料が付着していた[8]。この事件では、3人が北朝鮮工作員によって拉致され、外雄と武志については北朝鮮で生存していたことが確認された[9][注釈 1]。
以上を踏まえ、特定失踪者問題調査会では矢倉富康を「拉致濃厚」としている[2][3]。
日本の警察庁や経済産業省、税関が把握し、あるいは摘発してきた多くの不正輸出事件からは、北朝鮮が自らの核開発計画に従って着々と関連物資を集めてきた状況が明らかになっており、北朝鮮が日本を物資・機材の調達先と位置づけていたことは広く知られている[5]。そして、こうして集めた物資・機材の設置や使用には専門的な知識や高度な技術が必要である[5]。「日本で3指に入る」といわれる高い技術と豊かな知識を持っていた矢倉が、1970年代から80年代にかけて核・ミサイル開発を推進してきた北朝鮮にとって切望してやまない人材であったことは容易に推測できる[5]。
矢倉はまた、日本精機在職中、技術指導のため世界各地を飛び回っていた[1][5][6]。そのなかに東欧諸国が含まれていたことは注目に値する[5]。当時、北朝鮮は友好関係にあった東欧各国に対西側の活動拠点を構築していた[5]。東欧共産圏への入り口にあたるオーストリアの首都ウィーンは、日本人拉致にもかかわったよど号グループらが反核運動の拠点としていたことで知られ、田中実などウィーンを経由して北朝鮮に連れ去られた日本人拉致被害者もいる[5]。あらかじめ日本国内の協力者(土台人)によってマークされ、一般の日本人があまり行かない出張先でその活動を注視されていた可能性があり、また、東欧諸国と取引関係のある会社自体も目を付けられていたことが充分に考えられる[5]。
矢倉の父は、離ればなれになった息子に対し、北朝鮮向けラジオ放送「しおかぜ」を通じて、身体に気を付けるよう呼びかけるなどの活動をおこなっていたが、2015年(平成27年)2月5日に死去している[3]。
参照
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l “失踪者リスト「矢倉富康」”. 特定失踪者問題調査会. 2025年11月15日閲覧。
- ^ a b “失踪者リスト”. 特定失踪者問題調査会. 2025年11月15日閲覧。
- ^ a b c “北朝鮮向けラジオ放送「しおかぜ」応援プロジェクト2022 家族の呼びかけ「矢倉三夫さん」”. READYFOR (2022年5月10日). 2025年11月15日閲覧。
- ^ a b c d “拉致の可能性を排除できない事案に係る方々:矢倉富康さん”. 鳥取県警察. 2025年11月15日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l “【疑惑の濁流】核開発、偽札づくり…浮かび上がる特定失踪者と国家事業とのつながり”. 悪徳商法マニアックス. 産経新聞 (2008年12月28日). 2025年11月15日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 渡辺(2023)pp.164-165
- ^ a b c d e f g 渡辺(2023)pp.166-167
- ^ a b c 渡辺(2023)pp.167-168
- ^ 渡辺(2023)pp.168-170
- ^ a b “寺越友枝さん「息子を守るためにオルガン、サバ缶も北朝鮮へ…」”. WEB女性自身 (2018年8月26日). 2025年11月15日閲覧。
参考文献
- 渡辺周『消えた核科学者ー北朝鮮の核開発と拉致』岩波書店、2023年11月。ISBN 978-4-00-061618-8。
関連項目
外部リンク
- 矢倉富康のページへのリンク