濱端俊和とは? わかりやすく解説

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濱端俊和

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/11 23:19 UTC 版)

はまばた としかず

濱端 俊和
生誕 浜端俊和
(1959-09-10) 1959年9月10日(66歳)
アメリカ施政下の沖縄
(現・ 日本 沖縄県
失踪 1983年失踪(23歳)
失踪から42年7か月と1日
日本福井県敦賀市
国籍 日本
職業 会社員
(父)清徳
(母)光子
家族 (弟)俊明
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濱端 俊和(はまばた としかず、1959年昭和34年〉9月10日 - )は、沖縄県出身の特定失踪者 [1][2][3]1983年(昭和58年)4月10日福井県敦賀市にて失踪した[1][2][3]。失踪当時は23歳であった[1][2][3]

人物情報・失踪事件

濱端俊和は1959年9月10日、アメリカ施政下の沖縄(現:沖縄県)に生まれた[1][2][3]。幼少の頃から20歳までを浦添市で過ごし、1980年(昭和55年)に実家がうるま市に転居した。1980年4月から10月まで濱端は神奈川県下の自動車工場で季節工として働いた[3]。その後、うるま市の実家に戻り、地元企業に就職したが、就職先から神奈川県横浜市建設会社に研修生として派遣され、原子力発電所メンテナンスの仕事を担当するようになった[3]

1983年(昭和58年)3月末、大飯原子力発電所福井県大飯郡おおい町)の定修工事が完了し、美浜原子力発電所(福井県三方郡美浜町)の定修工事に転出するため、3月30日に横浜の建設会社本社に到着した[3]。横浜で工事用機材を積載し、4月2日に美浜原発に向けて出発、翌4月3日に福井県敦賀市の社員寮に到着した[3][4]。4月4日から美浜原発定修工事の作業準備を開始した[3]4月9日、同じ沖縄県出身の同僚とともに日帰りで東京都台東区アメヤ横丁に出かけ、洋服などを買った[3]。濱端は当時独身であった[4][5]

4月10日(日曜日)午後4時頃、前日アメ横に一緒に行った同僚をパチンコに誘った[3][4]。しかし、同僚が断ったので濱端は1人でタクシーを呼んで敦賀市内の社員寮を出た[3][4]。社員寮は現場作業用に建てたプレハブ2階建てで、周囲には飲食店娯楽施設もなかった[4]バスもなかったので、寮の社員が街に出るときにはタクシーを呼ぶのが常であった[4]

後日タクシー会社に確認したところ、濱端はパチンコ店ではなく国鉄(現:JR西日本敦賀駅で降りたという[3][5]。濱端の足取りが確認されたのはこれが最後であり、以後、行方不明となってしまった[3][注釈 1]。沖縄の実家にも連絡がなかった[4]。パチンコ屋や飲食店は敦賀駅前にはなく、駅に行く途中の市街地にあるので、当時、寮の周辺に住んでいた人は「遊ぶために駅まで行くという発想そのものがなかった」という[5]。濱端はジャンパー姿で出かけており、衣類をはじめ運転免許証預金通帳保険証などの荷物をすべて寮に置いたまま失踪した[3][5]銀行口座給与振込にも使用されており、失踪時点では22万5,169円の預金残高があった[5]。自分の意思で失踪したのならば現金は引き出しておくと思われるが、その後も通帳は放置され、4月12日5月12日には給与が振り込まれたが、その後もずっと手つかずの状態がつづいた[5]

濱端の会社の上司は、濱端を知っていそうな人物に片っ端から電話をかけたが消息はわからなかった[4]広島県在住の友人に預けた自動車があったが、それもそのままの状態であった[3]4月15日、上司は福井県警察敦賀警察署に捜索願を出した[4]

4月21日、濱端の上司たちは敦賀警察署に呼ばれた[5]変死体が発見され、その照合のためであったが、所持品も身体特徴も濱端と変死体の一致点はなく、完全な別人であった[5]。濱端が事件や事故、あるいは自殺で死亡したという可能性は低くなった[5]。この年、1983年の正月、濱端は沖縄に帰省して実家の家族と団らんしているが、オリオンビールを飲み、揚げ豆腐もずくグルクン唐揚げといった沖縄の家庭料理を食べ、ふだんと特に変わったようすはなかった[5]政治に特に興味があったわけでもなく、人柄も温厚であった[5]。自ら失踪する特段の理由はなかった。

10月23日、Yという女性から沖縄の実家に電話が入った[3]。「9月末に夫がいなくなった。行方がわからないか」という内容で、濱端とは、1980年に濱端が季節工として自動車工場で働いていたときに知り合ったのだという[3]。母親は濱端自身も行方不明になっていると告げて電話番号を聞いたが教えてはもらえなかったという[3]

問題点

警察情報によれば、濱端は身長155センチメートル、体重50キログラムほどで、血液型はA型、左顎の下にアザがあり、のサイズは24.5センチメートルであった[1][2][10][注釈 2]。こうした情報は、沖縄・福井両県の警察本部によってwebページでも公開されているが、職業欄には単に「会社員」としか記されておらず、原子力発電所の定期点検を職業としていたことは記していない[1][2][10]。これは、動燃(動力炉・核燃料開発事業団)のプルトニウム製造係長で1972年3月に失踪した竹村達也が単に「公務員」としか書かれていないのと同様、意図的に不明瞭な書き方をしているのではないかとの指摘がある[10][11][注釈 3]

1996年には父が、2021年には母が亡くなっている[5]。濱端の弟は事件を担当しているはずの福井県警察から兄の失踪の件で連絡をもらったことは一度もないという[10]。濱端失踪の4年前、埼玉県警察が捜査した水橋事件では北朝鮮工作員が1979年6月に敦賀市二村海岸より日本に密入国しているが、これは濱端の住んでいた社員寮から4キロメートルも離れていない[10]。警察の情報開示のあり方や捜査に取り組む姿勢、警備体制の脆弱さなどについては疑問の声も挙がっている[10]

脚注

注釈

  1. ^ 鉄道駅までで足取りが途絶える失踪事件としては、濱端失踪の翌年、1984年6月4日甲府駅前に原付バイクを置いたまま行方不明となった山本美保の事件がある[6][7]1960年(昭和35年)2月27日に失踪した看護学生の木村かほるも知人が奥羽本線秋田駅で確認したのを最後に行方不明となっている[8]。この2人については、北朝鮮国内での目撃証言がある[8][9]
  2. ^ 1959年4月21に照合された変死体は身長165センチメートル、靴のサイズは26.0センチメートル、また、濱端のが健康であったのに変死体の歯は総入れ歯だった[5]。変死体の所持品(めがね、靴、着衣、たばこ)はいずれも濱端のものではなかった[5]
  3. ^ 核技術と関連をもつ失踪者で、北朝鮮による拉致の可能性を排除できない人物には、濱端と竹村以外では、濱端失踪の前年、1982年3月に大学を卒業したばかりで、下宿を引き払って実家に帰ろうとした日に行方不明となった静岡県浜松市出身の河嶋功一(失踪当時23歳)がいる[12][13]。彼は大学時代、原子炉の燃料を出し入れする際に用いられるロボットアームの研究をおこなっていた[12][13][14]。 軍事転用の可能な精密工作機械「マシニングセンター」のトップ企業だった日本精機の元技術者で、その技術や知識は「日本で3本の指に入る」と高く評価されていた鳥取県米子市出身の矢倉富康(失踪当時36歳)もまた、1988年(昭和63年)に島根県竹島沖で失踪している[14][15][16]

出典

  1. ^ a b c d e f 拉致の可能性を排除できない事案に係る方々:濱端俊和 - 沖縄県警察
  2. ^ a b c d e f 拉致の可能性を排除できない事案に係る方々:濱端俊和 - 福井県警察
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 失踪者リスト「濱端俊和」”. 特定失踪者問題調査会. 2025年11月9日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i 渡辺(2023)pp.157-158
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n 渡辺(2023)pp.158-161
  6. ^ 渡辺(2023)pp.161-162
  7. ^ 失踪者リスト「山本美保」”. 特定失踪者問題調査会. 2025年11月9日閲覧。
  8. ^ a b 荒木和博 (2012年3月25日). “天内みどりさんの人権救済申立書【調査会NEWS1160】(24.3.25)”. 特定失踪者問題調査会. 2025年11月9日閲覧。
  9. ^ インタビュー「権革元国家安全保衛部指導員 2003年5月12日」”. 辺真一のコリア・レポート. 辺真一 (2003年6月23日). 2025年11月9日閲覧。
  10. ^ a b c d e f 渡辺(2023)pp.162-164
  11. ^ 拉致の可能性を排除できない事案に係る方々:竹村達也”. 大阪府警察. 2025年10月7日閲覧。
  12. ^ a b 渡辺(2023)pp.146-149
  13. ^ a b 拉致か、失踪か―「おかえりが言いたい」:消えた息子へ届かぬ思い”. タウンニュース(金沢区・磯子区版). タウンニュース社 (2014年12月11日). 2025年10月30日閲覧。
  14. ^ a b 【疑惑の濁流】核開発、偽札づくり…浮かび上がる特定失踪者と国家事業とのつながり”. 悪徳商法マニアックス. 産経新聞 (2008年12月28日). 2025年10月30日閲覧。
  15. ^ 失踪者リスト「矢倉富康」”. 特定失踪者問題調査会. 2025年10月30日閲覧。
  16. ^ 渡辺(2023)pp.164-167

参考文献 

関連項目

外部リンク




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