発端から企画の始動まで
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「白蛇伝 (1958年の映画)」の記事における「発端から企画の始動まで」の解説
日本発の初のカラー長編アニメ『白蛇伝』が作られるきっかけとなった映画に、香港のショウ・ブラザーズと共同制作した『白夫人の妖恋』(1956年、東宝)がある。池部良、山口淑子、八千草薫らが出演したこの実写映画は、中国の説話『白蛇伝』を題材にしており、香港で興行的に大成功を収めた。これを受け、『白夫人の妖恋』をアニメ化する企画が、香港の映画界から東映に持ち込まれた。 これがきっかけとなり、当時の東映の社長・大川博は、香港の下請けとしてでなく、独自の本格的なアニメ映画をつくることを考え始めた。当時大きな興行収益を上げるアニメはディズニー映画のみだったが、日本においてアニメ映画製作の体勢を整えていけば、将来大きな産業になるのではないかという、鉄道省の役人から東急の専務、そして東映の社長へと叩き上げてきた大川の、経営者としての予測もあった。 2時間規模のカラーアニメ映画を目指し、東映の教育映画部が中心となって『白蛇伝』の企画がスタートした。この企画のために集められたスタッフには、赤川次郎の実父である教育映画部の赤川孝一、キャラクター原案と美術を担当する岡部一彦(漫画家岡部冬彦の実兄)、NHK技研出身で美術担当の橋本潔、演出担当の藪下泰司などがいる。 とはいえこの当時の日本には、アニメを制作する会社は影絵動画を含めてもごく少なく、そのいずれもが僅かの社員を抱えるのみの小会社だった。例えば業界最大手だった日動映画ですら、社員20数名の社屋のない会社であり、高校の空き教室を間借りしアニメ製作をしているような状態だった。 また、それまでに作られた最大規模のアニメ映画は大戦中の国策映画『桃太郎 海の神兵』(1945年、松竹動画研究所、白黒)で、上映時間は74分だった。アニメーションの専門家と言える人材がいない状況で、2時間規模のカラーアニメをつくろうとするこの試みは、当時の常識から考えて極めて無謀とも言えた。 東映は、動画会社の吸収、短編動画の制作、動画スタジオの建設、スタッフ養成など、数年がかりでアニメーション制作の体勢を整えつつ、その集大成として長編アニメ『白蛇伝』を完成させるという大がかりな計画を立てた。1957年(昭和32年)6月末、『白蛇伝』の制作が正式に記者発表された。
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