発端、新日本プロレスVS誠心会館の抗争
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「平成維震軍」の記事における「発端、新日本プロレスVS誠心会館の抗争」の解説
1991年(平成3年)12月、国際空手拳法連盟「誠心会館」の館長を務める空手家・青柳政司は新日本プロレスに参戦しており、異種格闘技戦などを通じてその名が知られていた。12月8日の後楽園ホール大会において会場入りした青柳は荷物運びの為に門下生の1人を選手控室に入れていたが、この門下生がドアを開けたまま退出した事について小林邦昭が注意し、問答の末に門下生を殴って負傷させる事態が発生する。この事を知った誠心会館の他の門下生達が激怒し、12月11日の名古屋レインボーホール大会で直接抗議に訪れ、12月16日の大阪府立体育会館大会では駐車場において小林を襲撃した。 こうした状況の中、誠心会館の中心メンバーである齋藤彰俊(前述の襲撃騒動に参加していなかったが、本人曰く知らないうちに黒幕として扱われてしまっていた)に対し、当時の新日本フロントを務めていた永島勝司から、「東京ドームで挑戦状を読めるなら参戦を考える」とオファーが出され、1992年(平成4年)1月4日の東京ドーム大会において、齋藤を筆頭に誠心会館の門下生がリングに上がり、挑戦状を読み上げて完全決着の抗争が始まる。1月30日、小林と齋藤による異種格闘技戦が行われ、齋藤が勝利。続く2月8日は新日本若手の一角であった小原道由にも勝ち、当時の週刊プロレスが表紙に抜擢する程のインパクトを残した。躍進する齋藤の勢いに押された新日本だったが、小林に加えて越中詩郎も出陣し、徐々に戦況を覆す事に成功。これまで一歩引いた立場から見守っていた青柳も抗争に加わり、4月30日には小林の進退届と誠心会館の看板がお互いに賭けられて小林と齋藤が再戦し、小林がリベンジを果たした事で誠心会館の看板は新日本プロレス預かりとなった(後に看板は返還されている)。翌日には越中と青柳も対戦し、越中が返り討ちに成功している。
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